中山道一人歩き 1日目− 日本橋、板橋宿、蕨宿、浦和宿

 

 

東海道歩きからはや半年。そろそろ次の歩き旅をしたいと思いながら、なかなか腰の痛みがとれない。

東海道を京都まで歩いた後、帰り道を中山道で帰ろうとした。

ところが、名古屋の熱田神宮到着の翌朝、腰痛になったあと、重い荷物を背負った状態で百キロ以上歩いたため、京都三条大橋を出発して、草津追分から守山まで来たところで限界となり、中山道は断念し、引き上げることになった。

自宅へ帰り、その後ひと月ほど、自力で起き上がることもままならない状態が続いた。

それから半年。腰も治り、ようやく歩けるようになったので、試しに日本橋から少し歩いてみることにした。

日本橋

背中に荷物を背負うと、また腰痛の原因にもなりかねないので、荷物はなし。手ぶら歩きだ。

東海道を歩いたのは、まだ夏の暑さが残る時期であったが、季節はもう春。桜の花が日本橋のたもとを彩っていた。

東海道とは逆方向に進む。

まっすぐ一直線に秋葉原まで進む。よく知った道のりだ。東海道は人気があるので、そこかしこに説明書きの案内板が並ぶが、中山道の場合は、ほとんどない。

国道十七号線の脇に中山道と書かれた道路標識が時折その道が中山道であることを示してくれるだけだ。

日本橋を出てすぐに日光方面への分岐が現れる。日光道中追分という。でも、ガイドブック片手でなければ、気づかない。

秋葉原の脇をかすめて、総武線の線路をくぐりしばらく進むと、突然左に折れる。

本郷方面に上り坂を登ると、途中に湯島聖堂の外壁が見える。

坂を登りきってしばらくすれば、本郷三丁目。本郷三丁目の駅から吐き出される人並みに、紛れるようにして信号へと向かう。

東大の卒業式もすでに終わってはいるが、今日は今年の入試の補欠合格発表の日。

しかし、今年は補欠合格はないそうだと、今年受験した三男から連絡が入る。最後のかすかな望みも断たれた。合格者を上回る人が涙を飲む。それが入試。気持ちを切り替えて前に進んで欲しい。

赤門を過ぎ、安田講堂前を通り過ぎ、しばらくすると本郷追分となり、ここで中山道は左に折れる。

真新しい立派な建物の東洋大学の前を通り、道は真っ直ぐに巣鴨駅へと向かう。

小中学校が文京区だったので、このあたりには、多くの同級生が住む。よく遊びにも来た。

千石自慢ラーメンの前を通るが、大学生のころ、友人と時々食べに来たことを思い出す。随分ときれいな店舗に変わっていた。

巣鴨駅のロータリーに面したところに、公衆トイレがあり、そこでひと休み。

線路の上を渡した橋の上から山手線の線路を見てみれば、線路に沿った道沿いの桜が咲き始めている。

花粉症で鼻が詰まることを除けば、桜の咲く春先の歩き旅はとても楽しい。

山手線の線路を渡るとすぐにおばあちゃんの原宿、巣鴨地蔵通り商店街が見えてくる。

おばあちゃんの原宿であって、おじいちゃんの原宿ではない。おばあちゃんたちが圧倒的に多い。フィギュアスケートの応援女子と同じ比率で圧倒的におばあちゃんたちで占拠されている。

私はまだおじいちゃんではないが、ここが中山道でなければ、来ることもなかったと思う。時折おばあちゃんについてきたようなおじいちゃんはいたが、おじいちゃん連れは、とんと見かけなかった。

巣鴨地蔵通りから続く商店街は途切れることなく板橋宿まで続く。

おばあちゃんの原宿が終わり、都電の線路を越え、埼京線の線路を越えてもまだその賑わいが途絶えることはない。

板橋宿

仲宿の標識が見えた後、首都高速道路が上を走る国道十七号線を渡ったところから、板橋宿が始まる。

東海道も高輪の大木戸の先、御殿山あたりから北品川の宿が始まり、延々と鈴ヶ森刑場辺りまで商店街が続くのだが、板橋の宿もそれに勝るとも劣らない。

途中、板橋宿の手前で、国道十七号線に分断されてはいるが、環状七号線の先までその賑わいが続いている。

板橋宿に入ってすぐ、板橋宿の語源となった、板橋を渡る。

石神井川は、隅田川まで流れ出でる途中、ここで板橋に交差する。

練馬区は分離独立する以前、板橋区の一部だった。板橋は実に広い地域の地名だった。

木の板でできた橋という実にシンプルな地名が、数十万人にも及ぶ行政区の地名となるのは、なんだかとても不思議。

それにしても、中山道を歩いて感じる板橋宿の存在感。やたらと首都高速やら国道十七号やらが交差してごちゃごちゃした印象でしかなかったけれど、江戸時代は江戸の城北地区の中心であったことがわかる。

しかしながら、品川や新宿の今に至るその存在感の大きさと比べてみれば、現在の板橋の存在の軽さは否めない。

板橋宿が終わり、再び国道十七号線を歩く。

志村坂上から斜めに住宅街の方へ道は切れ込む。大山道標から練馬方面への道が分岐する。

そこをそのまま清水坂へと降りていく。ここから富士山が見えたというが、家々が建ち並ぶその先に富士山を仰ぎ見ることは、まるで想像だにし得ない。

志村の坂を下れば、新河岸川、そして荒川。

切り立った崖を下った後には、その先に川があることを想像させる、のんびりとした空間が広がっている。

川岸に広がる地域というのは、どことなくのどかだ。これも下流まで行くと、土手のすぐ脇にまでぎっしりと家が建ち並び、そのような余裕ある空間とは言えなくなる。

でも、板橋あたりの河川敷近くには、まだ広い空とのんびりとした時間が流れている。

川を越えると、急に空気が変わる。

昔は雨でも降って、荒川が増水すれば、船で渡ることはできなくなった。今は橋がかかっているのでいつでも行き来できる。でも、川の向こうとこちら、それぞれで流れる空気は明らかに違うのだ。

荒川は大きな役割を果たしているが、それだけではない。

荒川を遡ると、笹目橋の先で板橋区が途切れ、埼玉県和光市へと入る。

新河岸川に流れ込む、白子川に沿って、そこから県境は練馬方面へと食い込み、川の手前と向こうを行き来する。

その押し合いへし合いは、練馬区の大泉町にまで続く。

そして白子川の向こうとこちらでも、微妙に違った空気が流れているのだ。

東京側は重々しい息苦しさ。埼玉側は広々とした空といい加減さ。

東京の練馬から麻布十番あたりへと出かければ、地下鉄の出口を出た途端に空気が様変わりすることを感じるが、県境は川一本渡っただけで、練馬と麻布十番ほどの違いを感じさせてくれる。

戸田から先は、そんな徹底できない、埼玉のいい加減さが、中山道の道筋にも現れてくる。

旧中山道を歩いてみても、そこが中山道であると言われなければ、まるで気づかない。中山道であることを示す標識が見えても、それ以外は何もない。中山道であったところに、家が建っている場合もある。

そんな調子なので、道が突然それて家並の中を突っ切って一本向こうの道へと中山道が移っていたということもあった。

旧道に沿って出来るだけ歩きたいと考えていても、流石に家が立ち並ぶ道無き場所を歩くことはできない。そのような時は、その道を想像しながら、国道十七号線を歩くのだ。

蕨宿

街道歩きとは、道を歩きながら想像力でその道の風景を補い埋めていくものなのかもしれない。

街道筋の松並木を想像したり、一里塚を想像したり、今の風景にないものを、目に映る映像に重ね合わせる。

清水坂の向こうに富士山が見えなくとも、富士山が見えるかのごとく、民家のブロック塀の向こうに、富士山を重ねる。

こうした補正を繰り返しながら歩くのが街道歩きと言えるかもしれない。

雨が降り始めて余裕がなくなってきたせいか、俯いて足をただ前に進める。後ろに流れ行く地面を見つめながら、一歩一歩前に進む靴を見ながら、何かしらの想像力を働かせようにも、なんのエピソードも知らないため、ただの道歩きになる。

それぞれの土地についての知識がなければ、ただの郊外の住宅地にしか見えない。

浦和市街に入り、車が増えてくる。

歩道がない。車がスレスレのところを通るが、渋滞しているので怖さは感じない。

浦和宿

やがて、浦和宿を示す中山道浦和宿の碑が見えてきた。

日本橋から二十五キロ。朝の散歩と日本橋までの間に十キロほど歩いていたので、一日の歩行距離は、三十五キロ少々となる。

そう言えば昼食を食べていなかったと思い、シュークリームを一つコンビニで買って食べた。歩いている時はのんびりと何処かへ入って食べようとは思わないから不思議だ。

荷物がなければ、歩くことはできそうだ。

次は浦和の宿から歩くことにしよう。

続けて歩く方がいいのだが、まだそれが出来るほどの確信が持てない。

もう一回、二回続きを歩いてみて、その後どうするかを考えたいと思う。

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