ライフシェアリングの時代

核家族の時代の終わり

日本が農業中心の社会から、工業中心の社会へと変化する中で、核家族という家族形態は大企業にとって人材供給のもととなる、良い仕組みでした。

親世帯から、子どもたちが次々と独立し、新しい核家族が生まれていきます。そして、必要な家や家財など様々な製品が消費されていきました。

ところが、人口の減少が始まると、拡大生産を支えてきた核家族を基本的な単位とした、様々な仕組みが回らなくなり、逆回転をし始めます。

人口が減り、消費は落ちこみ、デフレスパイラルの中へと落ち込んでいきます。

アジア型大家族の復活

東南アジアを旅行していると、店先に日がなぼんやりと座っているおじいさんやおばあさんを目にします。

子ども世帯が店を経営し、孫たちが店の軒先で遊ぶ。

ぼんやりとしながらも、おじいちゃんは孫の行き先を目で追っています。

日本でも昭和の時代にはよく見られた光景です。

効率的な生産体制を維持するために、企業労働者は都市へと移り住み、気がつけば、大都市には核家族が溢れ、地方都市には老人家族がとり残されています。

しかしながら、親と子と孫の三世代の協力で回してきた、家族の仕組みにも、経済的合理性はあり、核家族が集中する、大都市中心部では、保育所が足りず、少子化が進み、社会的なコストが、余計にかかる事態となっています。

三世代の協力

大都市出身者の場合、家が通勤圏内にあれば、その家を二世帯住宅に建て替えて、三世代で暮らすという選択が可能です。

入り口を別にすれば、一棟のアパートに住んでいる別世帯のようなもので、お互いのプライバシーが侵害されることもありません。

例えば、東京の杉並区、中野区、練馬区などの郊外の住宅地では、二世帯住宅に改造された家が増えています。

土地があれば、上モノだけ建て直せば良いので、費用も安く済みます。

大きな農家であれば、同じ敷地内に、次々と家を建て、一族が集中して集まるという状況もよく見かけます。

家族は独立した個の連帯に変わる 

いままでの家族は、血縁関係が重視されてきました。

これからは、独立した個人が緩やかに連帯する家族が主流になると思います。

シェアハウス、というのはその先駆けで、そこで家族を意識することはありませんが、場合によっては、擬似的な家族のようでもあります。

一般的な家庭でも、部屋に閉じこもっている子どもたちが、食事のときだけはダイニングに集まります。

血縁関係にないこと以外、シェアハウスと一般家庭と、その客観的状況はあまり違わないような気がします。

独立した個人として生活をしていても、困ったときには、お互いに助け合うことができる。

このような人と人との関係は、もともと家族の中にあったものと同じです。

ここに家父長制的な上下関係が生まれると、虐待につらなる重苦しさが生まれてきますが、現在の家族関係は、個が尊重される関係です。

血縁関係にこだわらなければ、LGBTや養子縁組に対しても、もっとおおらかな社会になれるのではないか、と思います。 

情報化社会のシェアリングエコノミー

製造業の場合、社長を頂点に置く家族主義的な経営でも、成り立っていました。

しかし、工業化から情報化へと産業構造が変わる中で、いま求められているのは、プロジェクトベースの、組織運営です。

際立った個がプロジェクトごとに集合し、離散する。

家族の形態もこれに似た形に変わっていくのではないでしょうか。

フェーズごとにアジャイルで組み替えていく家族

家族を緩やかな個の連帯と考え、プロジェクトのフェーズが終了するごとに、あたらしい関係性へとシフトしていく、と捉え直すことは有効だと思うのです。

結婚したら、夫婦で独立すればいいし、その夫婦に子どもができれば、近居なり同居して、その育児を両親が手伝えば良い。親が老いれば、子と孫がその手助けをする。

地方から上京してきた人同士の結婚は、三世代の協力関係が築けず、結局、保育所が足りないということにつながっていきます。

ライフシェアリング

これからは、人生の中で、その時々に出会った人たちと時間をシェアする、ライフシェアリングの時代、と言えるのではないかと思います。

親と出会い、配偶者と出会い、子どもたちと出会い、孫と出会う。

それぞれのフェーズでライフイベントをこなし、アジャイル方式で、各フェーズを乗り越えていく。

こんなことを考えるのも、私がプロジェクトマネジメントを仕事にしていたからかもしれませんが、あながち間違ってもいない、とも思うのです。

ライフプランニング 初級編

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