結婚して生まれた子供が大学生になり、季節が一巡したような気分でいるときに、独身について思うこと
経済的にはまだ親の庇護のもとにはいるものの、精神的には親から自立したような気分でいるのが大学生の頃。
その精神的自立から、様々な出来事がありながらも、どうにかこうにか歳を重ねて、ふと自分の人生が一巡したと感じるのが、子供が大学生になる頃。
昨年三人の子供がすべて大学生となり、一人はことし社会人になり、ようやく肩の力が少しずつ抜けていくことを感じる今日このごろ。
上り調子に前のめりに、坂道を駆け上がっていた時代は既に遠く、この先に見えているなだらかな坂道を、ゆっくりと下っていけることは、結婚して子供ができた人の幸せなのでしょう。
たまたま私と結婚すると言ってくれる人がいたから結婚はできたけれど、もしも一人でいたとしたならば、いま何を思って生きていたのだろう。
こんな事を考えていたのかもしれない。
おそらく一人あたり衣食住と学費で少なくとも毎年百万円くらいは使ってきただろうから、それだけでも二千万円。三人だと六千万円。実際にはもっと使ってきたことでしょう。
これだけあれば、世界中を旅して歩けただろうし、六本木ヒルズに住むことだって出来ただろうと思います。
リーマンショックのあとであれば、六本木ヒルズのワンルームは六千万円程度で買えたので、私は特に無理もせずにヒルズ族になっていたかもしれません。
そしてそれを、最近のバブルの恩恵を受けて、今頃一億円くらいで売却して、シンガポールに移住していたかもしれない。経済合理性を追求すると、そのような行動となっていたかもしれません。
しかしながらいま、私は六本木ヒルズからは程遠い、周囲に畑が拡がる練馬区に住んでいます。
オリンピックのときなどに、よく言われることですが、応援してくれる人がいるから、がんばれた、ということは本当のことで、自分ひとりで生きていると、なかなか自分を押し上げる力は、湧いてこないように思います。
自分を応援してくれる人の思い。その人たちへの思い。思い思われる、この相思相愛関係が、自身のエネルギーを何倍にも増幅してくれるように思います。
自分以外の誰かを愛することが出来るようになると、想像以上のパワーが湧いてきます。家族という形態は、これを自然に発生させる装置であるように感じます。
独身でいる、ということは、自分を愛している、ということ。
自らを愛することは大事なことで、これが出来ないと、自分を傷つけたり、命を絶ってしまったりします。
虐待を受けて育った、ということでもなければ、親からの愛は、生まれたときから疑いの余地もなく自分の周りにあるもの。ですから、人から愛される、ということと、人を愛するということには、かなりの隔たりがある、ということに、なかなか気付きません。
親からの愛と同じものを異性に求めて、私を愛してくれる人がいない、のように語る人を時々見かけます。
でも本当は、私は私を愛している。そして、私が愛したい人は、私以外にはいない。
自己愛ということなのだろうと思います。
親から愛される、ということは受動的な関係。
誰かを愛する、ということは、自ら積極的に与える能動的な関係です。
愛することの出来る異性と出会い、自分以上に相手のことを思うとき、愛する二人の間に子供が授かるとします。すると、今度は相手に向かっていた愛が、二人の間に生まれた子供にも注がれるようになります。
子供は親、祖父母、からの愛を一身に受けて育ちます。親の愛はいつも必ず子を照らしていますので、子はその愛の重さになかなか気付きません。
昭和から平成に至る今日まで、日本の男性の多くは、属する組織を愛してきました。
子供の授業参観よりも、愛する会社の会議を優先してきました。
授業参観で会議をサボるなんて日本の会社員には想像できないかもしれませんが、今日は子供を迎えに行く日だから、会議はリスケね、なんてことは、フランスの会社ならよくあること。
虐待は虐待を生むと言います。
会社を愛した男の家庭からは、会社を愛する子どもたちが生まれてきます。
愛するひとがいる、ということは、とても幸せなこと。
愛されるだけで終わる人は、これに気づくことがない、というのがまた、人生の妙、とも思います。
独身であるからといって、愛することを知らないということではありません。
マザーテレサのように、多くの人を愛し、市井で生きている人を、私は知っています。
結婚していても、お互いのパートナーさえも、愛することができない人もまた、私は知っています。
どうぞその点誤解の無きよう。