東海道五十三次18日間ひとり歩き Day9 小夜の中山 島田(大井川)ー金谷ー日坂ー掛川 24k
東海道五十三次 九日目
島田(大井川)ー金谷ー日坂ー掛川
歩行距離 二十四キロ
一日の歩数 三万四千二百歩
目次
渡し場
本日は短めの十八キロ。実際には二十キロ程度と想定。朝九時過ぎに出発。ホテルから道なりに進み、数分で渡し場を再現した路地に着く。
人形も展示してある。往時の雰囲気が出ている。二百年前に想いを馳せる。一日の歩行距離が短いと時間に余裕がある。しかし、午後から雨との予報。そうのんびりともしていられない。空は晴れている。西の空に雲。これから向かう方角だ。
島田市立博物館
島田市立博物館で大井川の渡しについての展示を見る。今しがた見て来た、かつての街並みを、展示に重ねながら想像する。島田の宿は、五十三次の中でも、七番目の規模を誇った宿場町だと言う。大井川が増水すれば、いく日も足止めされたらしい。その滞在費用は莫大だ。増水は多くのお金を町に落としたことだろう。
荷物を背負ったままなので、そんなにゆったりと見学する気分にもならない。観光ツアーの人たちもいる。さささっと見て、すぐに大井川に出る。堤防沿いを歩く。川幅はかなりある。
明治の世を迎え、橋を作ろう、となったときに、島田、金谷の人たちは猛反対したそうだ。確かに橋ができれば仕事が無くなる。しかし、時代の流れには逆らえない。時代の変化に抵抗するよりは、早く対応した方が良い。川渡しの仕事を辞めた人たちが、のちに牧之原台地を開墾したそうだ。今や立派な茶畑が広がっている。
大井川
大井川の橋はおよそ一キロ。かなりある。新幹線や高速道路だと、もう大井川か、と考えているうちに、通過してしまう。しかし、歩くとかなりの距離だ。歩いてみて、わかることもある。越すに越されぬ大井川が、増水したら確かに、どんなことをしても渡れない。渡る途中、自転車の人とはすれ違ったが、歩いている人とはすれ違わなかった。一キロの橋とはそれくらいの距離だ。
島田の宿に比べると、金谷の宿の規模は小さく感じた。山が迫っているからだろう。
宿が終わると、すぐに金谷峠へと向かう急坂が始まる。金谷の宿自体、峠直下のちょっとした平地と大井川の間にできた宿といった感じだ。
金谷坂の石畳
ここに石畳が現れる。また石畳か、とがっくりしながら踏み出すが、ここの石畳はまるで違う。石の表面が平らに並べられている。つまり石の上を歩きやすい。おまけに滑らない石を選び並べられている。歩く人に配慮をした並べ方とはこうしたものだ。このように並べてあると、石が苔むしても滑らない。
ここで箱根の石畳を再び思い出した。トラックで、石屋さんから購入した適当な大きさの石を運んで来て、坂の上からゴロゴロと落として、上から叩いて埋めたような石畳。丁寧に並べた感じはしない。
しかし、ここの石畳はどうだ。実に歩きやすい。かつての石畳とはこのようであったはずだ。私は確信した。滑らない石畳は実際にあったのだ。箱根町の役所の人は、島田市の金谷の石畳に学んでほしい。三島市の教育委員会も視察して欲しい、平地なのに歩きにくい石畳を早く改良して欲しい。あれでは巨大な雪男の、ツボ押しコースを作ったとしか思えない。
金谷の石畳を上まで登ると説明書きがあった。町の人たちが自分たちで並べたという。確かに、歩きやすいように並べる、という人々の意思を感じた。
菊川坂の石畳
その先の下り坂に、江戸時代の遺構が残っていた。少し石が上を向いているものがある。ここでわかった。江戸時代のものは埋まっている。埋まる過程で、向きが少しずつ変わったはずだ。それをそのまま掘り起こす。すると石がぼこぼこ並んでいるように見える。
しかし、よく見ると一部平らな面が並んでいるところもある。つまり、何らかの理由で隆起したまま掘り起こされたものを見て、学者が石畳とはゴツゴツしたものだと思い込んだのではないか。
でも、ここまでにしておこう。私は研究者ではない。しかし、箱根町の石畳は間違っていると思う。あんな石畳で、どうやって大名を乗せた籠を肩に乗せて歩け、というのだ。お殿様を乗せて谷底へ転べば切腹ものだ。あのような石畳の上を、馬が歩けたのだろうか。箱根八里を馬が越せるなら、見せて欲しい。滑って転ぶに決まっている。そう考えれば、誤っている、ということに納得が行くだろう。
中山峠
石畳から先、一度下がって、再び急坂が始まる。上り詰めた先が、中山峠だ。金谷の宿と日坂の宿の間の道のりは、この旅で最も素晴らしい行程となった。
車はほとんど通らない。峠を越える間ですれ違ったのは四台だけ、自分の足音と風の音しか聞こえない。遠く遠州の山並みが、茶畑の向こうに見えている。
和歌の世界
平安の古今和歌集の時代から、幾人もの歌人によって歌われてきた中山峠。知らなかった。こんなところに素晴らしい峠道があったとは。
すぐ脇の高速道路を通り、子供の頃から、数十回と脇を素通りしていた。高速から見上げた、山の少し先に、このような時間が止まったような、静寂に満ちた尾根道が続いていたなんて。ここは本当にお勧めだ。
本日で京都までの前半戦がほぼ終了。旅の半分が終わりだ。どこが一番良かったか、と言えば、迷わず中山峠。そう答える。アプローチは、日坂宿からの上りの方が良いかもしれない。江戸の、またその前の平安の時代から続く、ゆったりとした時間を感じることができるだろう。途中いくつもの石碑が、歌人の遺した歌を示してくれる。その一つ一つが、中山峠を味わい深くしてくれる。
こうした文化的な遺構の残し方に、その町のセンスが現れる。島田、金谷、そして掛川。距離が短かったので、休息日程度にしか考えていなかった工程だが、前半で一番思い出に残る印象的な一日となった。
掛川城
ホテルに予想通り、早くに着き、洗濯を済ませてもまだ時間があったので、掛川城へ向かった。大河ドラマで、山内一豊の功名が辻を放送していた頃、家族で訪れた。
山内家の家紋は、私が小学生の頃使っていた学年マークと一緒だ。帽子や体操着などに名前とともに、この学年マークを使っていた。当時は山内家の家紋だなんて、当然知らない。普通は一年一組のように書くが、代わりにこのマークを描いた。すると学年が変わっても描き換える必要がない。六年間をともに過ごした。
また、山内一豊は豊臣秀吉の命で、天皇の聚楽第への行幸を、石田三成と共に担当している。時代は違うが、私も十数年前に行幸を担当したことがあるので、親近感を持っている。
天皇陛下を迎えるというのは、実に大変なことだ。東海道にも明治天皇の座った石、休んだ本陣が数多く残っている。石碑が立つくらい、大変なことを、平成の時代に経験出来たことは、実に幸運だった。
そんな掛川城に着いたのは閉館間際。
「今はあなたひとり。貸切ですよ」と言われ、靴箱を見ると、私の靴がただ一足。城主気分で急な階段をよじ登る。
遠く浜松が見えると案内が流れていたが、よく見えない。明日はよく見えないほど遠い浜松まで歩く。
前半もこれで終了。実に充実した一日となった。
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