東海道五十三次十八日間一人歩き よかったルートベスト3 

18日かけて、一人で東海道を歩きました。東京日本橋を出発して京都三条大橋まで。その中でも特に印象に残った思い出深いルートのベスト3をご紹介します。

第一位 小夜の中山と大井川 島田宿から日坂宿

大井川の川越し

なんと言っても、素晴らしかったのが、島田宿から日坂宿にかけてのルート。もう一度どこへ行きたいか、と聞かれれば、迷うことなくこのルートを歩いてみたいと思います。

島田宿は、大井川の関東側の宿。金谷宿は、関西側の宿になります。

大井川は東海道中最大の難所と言えます。いまは橋の上を歩いて渡れますが、その距離は約一キロ。その川幅に圧倒されます。

新幹線に乗っていると、まばたきをしている間に通過してしまうほどの距離ですが、歩くとその広さがわかります。橋を渡るだけで、十五分はかかります。

島田宿を再現した街道筋に、島田市博物館が建っています。

ここにはぜひ立ち寄っていただきたい。大井川を渡る前に、東海道にとっての大井川とはどのような存在であったのか。それをしっかりと理解することで、小夜の中山へと続くルートの味わい深さを噛みしめることが出来ます。

牧之原台地の開墾

当時、島田の宿は浜松の宿よりも大きな宿で、おおいににぎわったそうです。一度大雨で増水すれば、水が引くまで旅人たちは先に進めません。

それが明治の時代を迎え、船で渡れるようになり、やがて橋がかかると、川越しの仕事をしていた人たちは、仕事を失います。

その人達が次の仕事としたのが、牧之原台地の開墾です。

金谷の宿から金谷坂を上ると開けた大地が広がります。いったん菊川の間の宿に降りてから、再び坂を上ります。このルートの周りには広大な茶畑が峰筋の向こうにまで遠く広がります。

小夜の中山を歩くと、明治の時代以降の、島田、金谷の人々がどのよう気持ちでこの大地を切り開いていったか、急な坂道を上り下りすることで、感じることができるのです。

火山灰で覆われたシラス台地は、水はけは良くても、肥沃さとはかけ離れた土壌の積み重なる場所。ここを丁寧に開拓していく事ができたのは、川越しでつちかった忍耐力があったからでしょう。

この金谷から日坂宿にかけてのルートで、なぜ心打たれるのか。

それはこの地域の人々の、東海道に対する想いを感じることができるから、なのです。

「小夜の中山」と言われるこのルートの、あちらこちらに、西行や芭蕉の詠んだ歌を刻んだ石がいくつも置かれています。

それぞれの歌に、どのような物語があるのか、足を止めて噛みしめることが出来ます。

周囲は茶畑です。車が通るようなところではありません。聞こえてくるのは風の音だけ。茶畑の向こうから、お茶の香りとともに優しい風が流れてきます。

小夜の中山

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西行や芭蕉が歩いた時代に、茶畑はありませんでした。草木の生い茂る山道であったと思います。

そして、明治の時代。大井川の川越しをしていた人たちが、牧之原台地に上がり、石をどけ、地をならし、あれた大地を切り開き、茶畑を作り上げたのです。

このギャップ。わかりますか。

小夜の中山に歌われる世界と、茶畑の広がるいまと。その風景は大きく変わっています。でも、その歌を読んでいると、いま目の前に広がる茶畑に、往時の風景が重なり、立ち上がってくるのです。

歌の碑を置き、そこに東海道の街道筋の痕跡をしっかりと残す。小夜の中山には、牧之原台地を切り開いた、島田、金谷の人々の東海道に対しての想いを感じるのです。

小夜の中山が深く心に残るのは、積み重なる東海道の歴史の重みと、明治以降この地を切り開いていった人々の思いと、その両方が相重なり、味わい深く、歩いた人の足裏に、その熱意が刻まれていくからだと思います。

第二位 薩埵峠 由比宿から興津宿

由比の富士

東名高速道路を車で走ると、静岡県の由比ヶ浜で海にせりでたところを走ることになります。

由比パーキングエリアが途中にあり、そこから切り立った崖が迫る由比の町を見あげれば、家屋が薄く山肌にへばりついているように見えます。

ところが、実際に東海道の街道筋を歩いてみれば、高速道路から見える風景とは異なり、坂道にはなっていても、段々畑のひな壇に並ぶおひなさまのように、整然と家々の軒が続いています。

坂のある街は、風景にアクセントをもたらし、平地では感じられない、ちょっとした緊張感を、町の風景に加えてくれます。

それは背後に迫った崖であり、すぐ下に広がる太平洋。そして、キラキラと反射して眩しい、陽の光で彩られています。

どこかで見たな、と考えて、思い出したのは、地中海のコート・ダジュール。モナコの宮殿から見下ろす崖にへばりつく地中海の町並みは、バタークリームがたっぷりの柑橘系スイーツ。

しかし、由比の町に広がる大海原とその向こうに薄く霞む富士山。これは、歌川広重の描くジャポニズム。

由比の名物、かりかりに揚げた桜えびのかき揚げに、塩を一つまみふりかけて、さくさくとほおばれば、遠く海の向こうに富士が映える。

これがニッポンとも言える、フジヤマとテンプラを、まばゆい日射しのもと、堪能することが出来ます。

薩埵峠

薩埵峠をのぼる途中、みかん畑の中を歩きます。富士を背にしてみかん畑の中を歩いていると、日本ていいところだな、と思います。

いまは海岸線が隆起して、高速道路も走る海沿いの道ですが、陸地が海面に沈んでいた時代には、この薩埵峠を通らなければ東海道を行き来できなかったのです。

薩埵峠に向かって急坂を登りながら、ときどき振り返り、富士を確かめる。

大きく見える富士山とは、ここ薩埵峠でお別れ。みかん畑の中、ときどき振り返りながら、富士との別れを、そしてその余韻を、楽しみましょう。

第三位 鈴鹿峠 関宿から土山宿

街道一 関の宿

街道一の宿場町と言えば、関の宿でしょう。これほど完全なかたちで、街道の雰囲気を味あわせてくれる道筋はない、と思います。

どの宿場町も、宿であった歴史を大切にしていることがわかります。資料館を作り、東海道にまつわる施設を作り、宿場町であった頃の雰囲気を取り戻そうとしています。

しかし、関の宿には往時のたたずまいがそのまま残っています。それは錯覚なのかもしれませんが、宿の道筋をたどることで、東海道を訪れる人、だれもが共有する、東海道五十三次の世界観に浸ることが出来ます。

私が歩いたのは早朝でした。まだ宿全体が眠っているときです。

背中越しに朝日が差し込み、街道の行く手に真っすぐに伸びていく自身の影。

十月上旬の凛とした冷たい空気と、背中にあたる陽の暖かさ。

静けさの中、背中にまっすぐ一本の棒を当てているかのように、背筋をピンと張って、歩きました。

日中訪れると、また違った街が見えてくるのかもしれません。まだ町が眠る時間でした。この関の宿も、また日を改めて訪れてみたいと思いました。

ことばが変わる鈴鹿峠

関の宿を越えると、いよいよ峠道に入っていきます。車の走る国道はくねくねと上っていきますが、むかしの東海道はときどき車の通らない脇道に入り、そのようなところでは、ぼんやりと道端に腰掛けて、ぼーっとしていたくなるような、ゆったりとした時間が流れています。

歩いたのが、台風通過直後ということもあり、わずかに残る山道も、枯れ枝が散乱して、歩く山道がどこだかわからないところもありました。

そのため、鈴鹿峠への登り口を見失い、仕方なく車が走るトンネルで京都側へ抜けてから、引き返して鈴鹿峠まで、さかのぼってみました。

私は東京に住んでいるため、日本橋からスタートしましたが、東海道を歩くときは、京都から歩き始めるのが良いかもしれない、と思っています。

京都から歩き始めると、逢坂の関とよばれる、京都と滋賀の境界にある峠を超えて琵琶湖畔に入ります。そこからぐるりと琵琶湖に沿って対岸にまわり、中山道との分岐点である草津の宿から、東海道へと分かれます。

京都から琵琶湖を経て、鈴鹿峠へ向かうのですが、京都から見ると、この鈴鹿峠から先が、ちがう文化圏への旅路になると感じました。

京都から歩いてくると、鈴鹿峠手前までは、なだらかな坂道が続きます。そして、鈴鹿の峠を越えたところから、急な下りが始まるのです。

それは未知の世界へと堕ちていく、世界の終わりに沈んでいくような下り道です。

ここから先は、京の都から遠く離れた、未開の地だ。かつての旅人は、そう思い気を引き締めたのではないでしょうか。

関東から歩きはじめると、道中でことばの変化を感じることはありません。でも鈴鹿峠を越えたとき、明らかにそのことばが、関西風に変わっていきます。

土山の道の駅で、いつもの調子で頼んだかき揚げそば。白だしでした。そのずっと手前で、文化的にはすでに白だしに変わっていたとは思うのですが、そこで久しぶりにそばをオーダーしたのです。

そのとき、ことばが変わるとともに、そばが白だしに変わり、それによって、自分がこれまでとはちがう国へ来たのだ、ということを改めて実感したのでした。

江戸から歩き始めておよそ二週間。鈴鹿峠を越えてようやくゴールの京都を感じるようになります。そんな変化が味わえる鈴鹿越えです。

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