中山道一人歩き 3日目 熊谷宿、深谷宿、本庄宿、新町宿、倉賀野宿

熊谷宿

熊谷と聞けば、暑い町という印象が強いと思うが、まだ四月の上旬であったため、とても寒かった。

駅の階段を降りると、北風が吹きつけ、東京よりも空気が冷たい。

朝7時半に熊谷駅前を出発。通勤の人たちが駅へ向かい、また、駅から歩きはじめる人もいる。

浦和までは東京方面へ向かう人が圧倒的に多いが、熊谷までくるとそうでもない。

熊谷から東京都心まで通うのは大変と思うが、大学生の頃、熊谷女子高出身の人が、熊谷の自宅から早稲田まで通っていた。片道二時間はかかる

通えないことはないが、往復四時間はもったいない気もする。

中山道は国道十七号線と重なり、広い歩道は歩きやすい。

時々旧道が十七号線から逸れて斜めに離れていくが、しばらくすると、十七号線と合流する。

あたりの風景はなにも変わらない。

また、中山道であることを示す標識は、相変わらずほとんど目につかない。

手元のアプリの地図で、位置の確認を行っているから中山道の上を歩いていると認識できるが、アプリがなければお手上げだ。

国道十七号線沿いを歩くと、店が多いので助かる。特にコンビニには食事とトイレでお世話になる。

途中、レストランや食堂へ入ることはない。

食べたらすぐに歩きはじめる。

一日に四十キロ歩く場合、時速四キロとして、十時間かかる。

長時間歩くので少しでも時間を有効に使わなければならない。

埼玉県に入ってから、中山道に関する説明が書かれた案内板を見かけない。

神奈川県内の東海道の場合、数百メートルおきに、その地域のいわれを説明した案内板が立っていた。

地域の人たちもそこでその場所の歴史を知り、その土地に誇りを持つ。

ところが埼玉県ではそのような動きが見られない。

たいていの場合、市の教育委員会の名義で案内板が立てられる。

しかし、埼玉県内には、他県には多く見られる、教育委員会名義の案内板がまるで見当たらない。

東海道で同じような状況なのが、愛知県だ。愛知県内では東海道の道筋を解説する案内板はほとんどない。

ただし、宿の中だけは豪勢に作り込んでいる。

愛知県と埼玉県に共通するのは、中途半端な立ち位置ということだろうか。

埼玉県の場合、東京寄りの地域は多くの人が東京へ働きに出かける。だから住んでいる場所に対する愛着心が育たないのかもしれない。

だからこそ、その土地の歴史を共有するためにも、案内板を立てるべきだと思うが、埼玉県のごくごく一部を除き、ほとんどそのような取り組みは見られない。

埼玉県に比べれば、愛知県は非常に良くやっている、という評価に変わる。つまり、埼玉県の中山道に対する取り組みは全国的に見て著しく悪いと思う。

中山道が盛り上がらないのも、埼玉県のせいかもしれないとさえ思う。

東京を出てすぐに、荒川を越えたところで、もうどこに中山道があるのかがわからなくなってしまう。

中山道があったからこそ、江戸時代の埼玉は栄えたに違いないのに、実に寂しい。

こんなことを書くのも、道中ほとんどなにもないからだ。

何もない。

ただの田舎道をひたすら歩く。

ウォーキングの大会に参加していると思えば、どうということはない。

深谷宿

深谷の宿に入る。

特に変わるものはない。

ひたすら黙々と歩く。

深谷はネギで有名だが、渋沢栄一が一万円札になることが決まった。

何かないかと思いながらいつのまにか京方の常夜灯までたどり着き、これで深谷の宿はおしまい。

常夜灯があるのでまだ良い。

深谷宿を出てしばらくすると、中宿古代倉庫群跡の近くを通る。

トイレ休憩も兼ねて、中山道から少し逸れて、右に坂を下りる。

年貢を保管するための、校倉造りの倉庫が並んでいたそうだ。

公園を出て、中山道と交差する交差点に戻り、小山川にかかる橋を渡る。

黄色い花が中洲に咲き乱れている。

風に吹かれて気持ち良さそうだ。

水鳥が数羽、川の上に群のまま浮かんでいる。

橋の上からは上毛三山が見渡せる。

中山道を歩きながら、秩父の山は時々見えていたが、正面に山が見えるようになってきたのは、深谷のあたりからだ。

江戸を背にして、左手にも、正面にも山々が見えると、江戸から随分と離れたところまで歩いてきたことを実感する。

地平線が遠くまで広がる風景だが、かつては埼玉県内のほとんどすべてがこのような風景であったはずだ。

であれば、その道中、何もなかったとしても不思議はない。

この風景を、戸田や浦和、大宮などの風景に重ねれば、埼玉県内には、書き留めるべき事柄が何もなかったとしても、不思議なことではないと、考え直した。

橋を越えて川沿いの細道を歩くと、やがて古めかしい馬頭観音やら石像などがまとめておかれているところがあった。

ときどきこのような中山道の痕跡が、道端に残り目に止まる。

でもそれが何なのか、そこにどのような意味があるのか、よくわからない。

ただ放置してある。

このようなものを道中幾度となく目にした。

郷土史研究家が時折テレビで解説しているところを見かけるが、中山道では、このような歴史的遺物を研究をしている人はいないのだろうか。

埼玉古墳群では立派な展示が行われている。

そのほんの一部の労力を、道中に残るわずかな遺物に注ぐことで、中山道の魅力が向上すると思うのだが、予算の出所が違うのだろうか。縦割り行政がこの原因かもしれない。

川から離れて、再び町中へと戻る。

本庄宿

しばらく歩くと本庄の宿だ。

本庄宿は中山道の宿の中でも、規模の最も大きい宿であったという。

中山道から分岐し、富岡、下仁田、荒船山方面へと向かう、下仁田街道が伸びている。

本庄の町を出てしばらくすると、神流川(かんな)川が見える。

この神流川の橋は、結構長い。

神流川を渡ると群馬県に入る。

新町宿

神流川橋を渡ってすぐのところにあるのが新町宿だ。

新町宿には、明治天皇が宿泊した平屋建ての建物が残されているが、本当にここに明治天皇が宿泊したのかと思える質素な建物だ。

新町宿は大きな宿であった本庄の宿の隣にある。川と川に挟まれた位置にもあることから、当時は川越しのタイミングを計るための小さな宿であったのだろう。

ほかに理由が思いつかない。

新町宿を過ぎると、やがて鳥川のほとりに出る。

鳥川は利根川から分かれた支流だ。

その名の通り、川の土手道を歩いていると、鶯の鳴き声が聞こえてくる。

遠くの水辺でも、鳥の鳴く声が聞こえる。

風が強く前から吹き付け、全身が押し戻される。

今日は一日中、進行方向からの向かい風が強く吹いている。

土手道は遮るものが何一つない。

前方に見える山から風が吹き降りてくるのだろうか。

これが上州の空っ風か。

鳥川を渡り、左折する。

しばらくすると、立派に整備された県道に出る。

倉賀野宿

今朝、歩き始めた時は、高崎までを目標としていたが、本日は一つ手前の倉賀野宿までにすることとした。

すでに四十キロを越えて、そろそろ足元もおぼつかなくなってきた。

高崎まではまだ五キロ近くあるので、さらに一時間かかる。

また、次に歩く予定の区間は碓氷峠手前の横川の釜飯で有名な横川までとなる予定だ。

坂本宿はその先の二キロの場所にある。

倉賀野から横川までの距離が、おおよそ三十五キロほどなので一日の歩行距離としてはちょうど良い。

歩き始めの時は、高崎までと欲張っていたが、四十五キロは少し歩き過ぎだとも思っていた。

東海道を歩いた時、熱田神宮から三重県の四日市まで、一日で五十キロ近くを歩いた。

これですっかり腰をおかしくしてしまった。

歩き過ぎは良くない。

その記憶もあったので、家でガイドブックを見ていた時には、セカンドオプションとして倉賀野までのプランも考えていた。

日本橋を出て、浦和の宿までが一日目。二日目が熊谷の宿まで。そして三日目に群馬県に入り、高崎の近くまできた。

正直に言って、埼玉県内の中山道は、歩いてもそれほど楽しいものではない。

それでも、体の中に刻み込まれる距離感は、歩かなければ得られないものだ。

以前に、通しで歩くことを考えていた時には、四日くらいで歩くことを考えていた行程を、三日で歩いた。

これも続けて歩かずに分けて歩いたから出来た。

東京から往復する方法が取れるのは、碓氷峠の手前までだろう。

この先は宿泊しないと、交通費の方が高くつくし、自宅から往復にかかる時間も無視できなくなる。

群馬県に入ると、中山道の案内板が増えてきた。

素っ気ない扱いだった埼玉県から、群馬県に入り、俄然中山道を歩く楽しみが増してきた。

この先は、碓氷峠、軽井沢、信濃追分、望月、和田峠と難所が続く。

峠道としても難所だが、宿泊をどうすれば良いか思案のしどころだ。

このあたりのプランをじっくりと考えながら先に進むのも、分けて歩く時の楽しみと言えるかもしれない。

東海道と中山道の歩き方
中山道一人歩き 1日目− 日本橋、板橋宿、蕨宿、浦和宿
中山道一人歩き 2日目 浦和宿、大宮宿、上尾宿、桶川宿、鴻巣宿、熊谷宿
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