中山道一人歩き 4日目 倉賀野宿、高崎宿、板鼻宿、安中宿、松井田宿、坂本宿(横川)

倉賀野宿

倉賀野の駅から、中山道までの道を歩いていると、すれ違う小学生に声をかけられる。

「おはようございます!」

東京都心では、大人が声をかけてきたら怪しい人と思えと、おかしな事を教えている。こうなってくると、子どもたちが大人を警戒するようになり、大人が子供に声をかけることがはばかられるようになる。

ところが、倉賀野の小学生は、かつての東京の小学生がそうであったように、朝すれ違う大人たちにあいさつをしている。

おかしな大人のおかしな事件が報道されると、どうしても目立つので、世間全体が保守的な行動に出る。大人を見たら、怪しい人と思え。声をかけられたら全力で逃げろ、と。

このようなことを教えられる小学生は不幸だ。その点倉賀野の小学生は実に気持ちが良い。

私もすれ違い様に、小学生たちに、「おはよう!」と、あいさつを返しながら歩いた。

朝一番で良い気分になり、倉賀野の印象がずいぶんと良くなった。

巨大な高崎駅の一つ東京よりの駅で、その規模は小さなローカル線の駅。しかし、このような小学生が生活する町は、きっと住みやすい町に違いない。

倉賀野駅から数分歩き、中山道に出ると、しばらくして道の先に、どっしりとした山が見えてきた。

山頂付近には雪が積もっている。

浅間山だ。

4月というのに、真っ白だ。

数日前、急に寒気が降りてきて、4月とは思えない寒さとなった。そのときに浅間山の周辺に雪が降ったのだろう。

山頂付近を白く染めた山を見ると、自然と富士山を思い出す。

東海道を歩くときは、絶えず富士山の存在が気になる。富士山がどの位置に見えるか、どれくらいの大きさに見えるか。富士山が東海道のランドマークとなって、歩く人を励ます。

中山道の場合は、浅間山だ。

他を圧するほどの高さを誇るわけではないが、その雄大な独立峰は、遠くからでもよく分かる。

高崎の手前から、近づくに連れて、浅間山は段々と大きくなる。少しずつ大きくなるということは、少しずつ近づいているということだ。浅間山が家並みに隠れて見えなくなると、またいつ現れるのかと気になる。

高崎宿

高崎駅周辺には高層ビルが建ち並ぶ。高崎宿がどこから始まりどこで終わるのか。案内板がないので、どこから高崎宿が始まり、どこで終わるのかがわからない。

群馬県に入ってから、中山道の表示が要所要所で立っているため、道を間違えることが無くなった。

高崎宿がそろそろ終わる頃、三国街道へと続く道が、中山道から分岐する。

鳥川を越える橋が、君が代橋。明治天皇がここにあった木橋を渡ったことから記念して命名されたそうだ。

橋を渡りしばらく歩道のない道で、後ろから来る車に煽られながら、壁に張り付き前に進む。そして、幹線道路から分かれて、中山道は急に静かな街道へと変わる。

やがて先程の鳥川と合流する、碓氷川の川岸に出る。土手に登ると、正面に浅間山。左手に妙義山が見渡せる。

正面に浅間山を見ながら、歩を進める。すれ違う人と会釈をする。東京のように目をそらして素通りする人もいるが、それは私が目をそらしているからだろう。

一度すれ違いのときに目が合うと、おはようございますと、どことなく互いに声が出た。ニコリと自然な笑みが浮かぶ。人間らしい生活が、群馬にはある。

板鼻宿

しばらくすると、中山道は国道からそれて、板鼻宿の方へ入っていく。

板鼻宿はかつて、上州一の規模を誇る宿場町であったようだ。しかし、今ではその面影がまるでない。

碓氷峠へと向かう国道十八号線は、車の量も多く、店の数も多い。ところが、そこから脇にそれるように入る本来の中山道の両側には、およそ商売とは無関係の住宅が並んでいる。

碓氷川の川越しで、足止めをされることが、宿の繁盛につながったそうだから、橋ができ、いつでも自由に通過できるようになった今では、そこに人が留まる理由がない。

オンラインショッピングの成長とともに、人々が買い物に出かける理由がなくなった時、地方の町に展開する地元ならではの商店街も、消えゆく運命にあるのかもしれない。上州で一番賑わった宿場町が、今では、その痕跡すらなく、閑散としている。

安中宿

再び碓氷川を渡り、安中の宿へと続く一本道に入る。

日が上がり、暑くなってきた。気温が上がっている。日陰がない。帽子を持ってくれば良かったと思ったが、持っていない。

ときおり少し高い建物があると、その軒先に伸びる長い影の中で、心地よい風を感じる。

北上していたときは、日は背中に当たっていた、しかし、高崎から先は、日は常に顔の左側にある。

顔が焼け付くように痛い。山から降りる風はまだ冷たい。でも、空から刺す光線は顔の表面をジリジリと焼く。

そうだ、と傘を持っていたことを思い出す。折りたたみ傘を開く、そしてその傘下に入る。少しだけ楽になる。しかし、しばらくすると、その傘越しに、熱い光線がじりじりとにじみ出てくる。

安中の宿で懐かしいものを見た。杉並木だ。

日本橋から安中まで中山道を歩き、杉並木がなかったことに気が付く。

東海道には、いくつもの杉並木があった。街道を歩く人にとって、杉並木は日差しを遮ってくれる優しい味方だ。無くてはならない杉並木。

同じようにかつては中山道にもあったはずだ。ところが、日本橋から安中へ至る道中、杉並木があったという記憶がない。まるで記憶にない。

しばし、杉並木の木陰の下、優しい風に吹かれながら歩く。

松井田宿

やがて、国道十八号線に出る。しばらくして左手に分かれて松井田の宿に入る。このあたり、どこから宿が始まり、どこで終わるのかがわかりにくい。そして踏切を渡ると、突然道が途絶える。道が消えた。

アプリの指示する道に沿って歩くと、田んぼの畦道に出る。

途中、田んぼの真ん中に、石垣を崩してできたような、古い黒ずんだ石が積み上げられている。道は消滅して田んぼの中を通る畦道となっているが、田にはふさわしくない石だ。中山道の痕跡のようにも見える。

田を突っ切って、道に上がると、そこから階段を上り、薄暗い竹やぶを通る。

地蔵が並んでいる。ここは当時のままだ。真っ昼間なのに、冷たい空気に背中が押されて、ぞくぞくする。

全く誰も歩かなくなった道が、ほんの少しだけ切り取られて忘れ去られている。そして、往時の中山道の雰囲気をそこに感じることが出来る。

舗装路に出ると、すぐ目の前に、上信越道松井田妙義ICから降りてきたときに何度も通ってきた、交差点が見える。

タイムスリップしたあとに、見慣れた風景に出会う。なんと奇妙なことだろう。こんな近くにこのような場所があったなんて。誰も気付かない。何度も通った道のすぐ脇に、こんなにもひっそりとした中山道が隠れていただなんて。

日本橋から四日間歩いてきて、田んぼの畦道から、薄暗い竹やぶをくぐり抜けるこの数分間が、これまでの道中、もっとも心震えた時間だった。

落ち葉を踏みしめて登った竹やぶの先の舗装路に、ぽんっと足を踏み出した途端、夢から覚めてしまったように、現実の中に引き戻されていた。

竹やぶの先で、高速道路の高架橋の補修工事が行われていた。コンクリートを注入するマシンのエンジンが大きな音を立てている。でも、まだ私の中には、あの竹やぶの静謐さが残っていた。

どこか意識は遠くを漂っていたのかもしれない。耳は大きなエンジン音を捉えていたが、私の心の中は静寂で満たされていた。

その後は、線路の脇をただひたすら歩いた。鉄道ファンが信越本線の線路脇で、三脚を立てて電車が来るのを待っている。途中、時刻表に載っていない、誰も乗車していない昔の特急あずさにも似た車両が眼の前を通過して行った。

桜が満開のベストポジションで、戻ってくるところを撮影しようと考えているのか、車が数台相次いで、線路脇の空きスペースに流れ込んでくる。トランクを開き、慌てて三脚を取り出す。別の場所で撮影して、またここで撮影しようと用意をしているのだろう。

坂本宿(横川駅)

街道筋から、家の隙間に駅の一部が見えた。横川だ。横川駅の数キロ先のところに坂本宿はあるが、今日は横川までとする。

四日かけて、日本橋から浦和。浦和から熊谷。熊谷から倉賀野。倉賀野から横川と歩いた。この間、道中手ぶらで歩いた。スマホと予備バッテリーとアップルウォッチとかさと財布だけを持って歩いた。

荷物を背負って歩くのは、腰痛がぶり返しそうで怖かったが、手ぶらだったので、気楽に歩けた。

でもここから先は手ぶらで歩くという訳にはいかない。碓氷峠は山道だし、その先には和田峠もある。

この先は、また改めて、時間を置いて、歩いてみたい、少し時間をおけば、腰も更に回復していることだろう。

東海道五十三次十八日間一人歩き ② 歩く準備 靴が一番大事
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