広告のない世界

    ソ連支配下にあった頃の東欧諸国には、くすんだセピア色の建物が並んでいた。それは誰かの心の中に残る心象風景ということではなく、実際に町の煙突から、いくつもの煙が立ち上り、その空の下、煤けた石造りの街並みがひろがっていた。そのくすんだ空の下で、鮮やかに原色で彩られた何かを目にすることはなかった。いぶしたような、煤けた街並みが、東西を隔てる壁の向こう側には拡がり、東欧世界全体を覆っていた。

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    広告のない世界。それがどのようなものか、想像できるだろうか。公共放送には広告がない。民間放送の番組と、公共放送の番組とを思い浮かべてみれば良い。どちらも良し悪しあるけれど、公共放送だけでは息苦しい。民間放送だけでは、見るべきものが限られる。色々あるから考えることができる。どれか一つだけだと、何を信じて良いかわからなくなる。 

    資本主義とは広告のある世界。社会主義とは広告の無い世界。広告とは、気づかずにいた人々の欲望を喚起するもの。知らなければ知らないで済んだものなのかもしれない。でも広告は、それを見ることによって、人々の中に生きる歓びを湧き起こす。広告を目にすると、人々はそのものに興味を持つ。そして、そのものが象徴する豊かさに気付く。それが欲しい。

    それを手に入れることによって得られる喜びが自身の力となる。人々の欲望が形となって目の前に現れることによって、それを入手するための行動を人々がとり始める。そして社会全体がダイナミックに動き始める。

    欲しい、と思うことが人々を動かす。そうしたことを煩悩といって片付けてしまうことは簡単だが、その煩悩を燃料にして、人類は歴史を作ってきた。

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