龍安寺のつくばいに刻まれた「吾唯足知」
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水戸光圀の寄進したつくばい
京都の龍安寺に水戸光圀が寄進したつくばいがあります。
つくばいとは、お茶の前に手を清めるために使う水を入れるお鉢のようなもの。
水戸光圀は「吾唯足知」の文字が刻まれたつくばいを、龍安寺に寄進した、と言われています。
足るを知りたい
足ることを知っていることはとても豊かなことで、足ることを知らないと、豊かなように見えてもその実情は貧しい。
多くを持ちながらもっともっと欲しいと満足の出来ない人は、「千と千尋の神隠し」で豚になってしまった、千尋のお父さんのようです。際限無くあらゆる欲望を飲み込んでいくと、最後はカオナシになってしまいそうです。
みんなカオナシ
求めることが貧しいということでは無く、際限無く求めることが貧しい。その有様はみっともないし、どこまで行っても自身で満足が出来ない。満足を知るためには、むしろ足ることを知ること。こちらの方が幸せを追求するためには必要なこと。
日産の前会長も十億円で満足できれば良かったのに、もっともっととカオナシのように、際限なく欲望を飲み込んで、最後は破裂してしまった。
名誉も体験もキリがない
欲の対象は物だけではありません。名誉、体験もキリがありません。
課長になれば部長に。本部長になれば取締役に。社長になれば、経団連の会長に。そして最後は勲章をもらいたい。
八十、九十になっても、山から降りてこない高いところが好きな人たちが大勢います。
人生の楽しみは高い山の山頂だけにあるというわけでもありません。高い山からの眺めは素晴らしいものですが、麓で繰り広げられる、人間模様を知ることもまた、人生の愉しみ。
高いところに居続けたがる人たちもまた、足るを知らない種族です。
欲は原動力でもある
物を欲しがらなければ清貧というわけでもなく、出世に関心がないから清廉とも言えません。
欲しい。やりたい。
こうした動機は人を前に動かす原動力となります。
私たちは生まれたいと思い、この世に生を受け、生きているわけです。
別に生まれてきたかったわけでもないと、嘯く方もおられるかもしれませんが、それでも死なずにここまで生きてきたということは、生きたいという欲が食を取らせ、体を成長させてきた、ということなのだと思います。
文鎮
龍安寺で「吾只足知」の文鎮を購入しました。
訪れたのは、かれこれ十年以上前にもなります。
机の前において、毎日目で見ているのですが、相変わらず腹一杯食べてしまう私です。
哀しい。