中山道一人歩き 9日目 藪原宿、宮ノ越宿、福島宿、上松宿、倉本駅

藪原宿

藪原駅

翌日は駅の改札口を出て、そのまま歩き始めた。朝から雨が降っていて、視界が悪い。駅を出てすぐに国道と合流するが、トラックの跳ね上げる水しぶきが歩道の中にまで飛んでくる。

国道の脇に川が流れているが、この川は昨日までの奈良井川ではなく、木曽川だ。

鳥居峠が分水嶺となり、長野側が奈良井川、岐阜側が木曽川となっている。当然川の流れは昨日の逆方向となる。

トラックの跳ね上げる水しぶきを傘で避けながら、歩道の川よりの、ぎりぎりの縁を歩く。

藪原宿から宮ノ越宿までは二里ほどあるが、途中はひたすらトラックの巻き上げる水しぶきと戦っていた。大きな水たまりがあった時などはたまらない。トラックが通過するタイミングと決して重ならない様に、歩くスピードを変える。それでも、どうしてもタイミングが被ってしまった時には、仕方ないので、雨に濡れながら、トラックの巻き上げる泥水に向けて傘を構える。泥水を被るよりは、雨水に濡れたほうが心地よい。

宮ノ越宿

その様な戦いに明け暮れているうちに、宮ノ越宿の入り口が見えてきた。宿の中にトラックは入ってこないので、宿に入れば安心して歩く事ができる。

宮ノ越宿の看板から国道を外れてすぐのところに巴淵がある。木曽義仲のパートナーであった巴御前が幼少の頃遊んだとされる川の淵だ。男勝りの巴御前が、川に飛び込み遊んでいる様子がその風景に重なる。

巴淵

しばらくすると木曽義仲についての資料館である、義仲館が見えてくる。橋を渡ったところに、大きな駐車場とともに建物が見える。車で来ていれば、躊躇なく中へ入るのだが、雨で濡れた服装のまま、先を急ぐ旅路の最中、中を覗く余裕がない。

義仲館

昨日いきなり五十キロ近く歩いたため、股ずれと、足のマメと、筋肉痛が体の各所で発生し、コンディションもあまりよろしくない。

後ろ髪を引かれながらも先を急ぐと、今度は本陣が現れた。入り口を覗いてみたが、入館料がかからない模様。ただであれば見学するというのも浅ましい感じがしなくもないが、明治天皇もお泊まりになったというお部屋を含めて一通り拝見させていただいた。

宮ノ越宿本陣

中山道も東海道も街道筋に本陣が残っていたり、復元していたりするところはあるが、大抵のところは有料だ。

宮ノ越の宿には、義仲館はあるし、本陣も無料で公開されているし、見応えがある。他にも無料で見られる旧旅籠田中屋もあった。宮ノ越宿は次回観光で来て、ゆっくりと各施設を見て回りたいと思った。

宮ノ越宿の少し先が間の宿の原野。この辺りが中山道の中間地点になる。ここを越えるといよいよ江戸よりも京都の方が近い、ということになる。

福島宿

雨は降ったり止んだりしているが、これは台風から流れてくる雲が、気まぐれに雨を降らせたり、止めたりしているだけなので、いつ雨が降っても大丈夫な様に、傘を手放すことができない。

幸い国道から外れた道を歩く事が出来たので、泥水を被る機会はないまま、やがて、木曽福島の宿にたどり着いた。

木曽福島といえば、木曽山中で最も大きな宿だ。そしてその入り口には、碓氷の関、箱根の関、新居の関と並ぶ、天下の四関の一つである、福島の関がある。

木曽福島の町の入り口には大きな門を模したゲートがある。そしてその門をくぐると、すぐの高台に福島の関所跡がある。

木曽福島関所跡

今では川沿いに道は伸びているが、往時はこの高台の関所を人々が行き交ったのだろう。

資料館も併設されているが、そのまま素通りし、すぐに町の方へと抜けていく。

いったん市中の商店街の中を通った後、再び高台へと上る。するとそこには、古の街道筋の雰囲気を味わうことのできる、福島宿の街並みが残されていた。

あまりに雨が激しく降ってきたため、坂を上がったところにあった、高札場に隣接した屋根付きの休憩所で荷を降ろす。雨のせいか、観光客らしい人の姿は自分を除いていない。

雨の中、休憩所の庇の下で、道に跳ねる雨粒を目で追う。

中山道も、今では完全に舗装されて、雨の中でも普通に歩く事ができる。しかし、これが当時であれば、わらじで歩くことになり、道はぬかるみ、一日歩けば膝から下は泥まみれとなったことだろう。防水のシューズに速乾性の素材でできたシャツとスラックスで歩く、この時代を生きる私の快適性は、比較にならないほど高いはずだ。

その様なことを考えながら、再び歩き始める。靴の中はゴアテックスに守られ、全く濡れていない。少しくらいの水たまりでも平気だ。古の人々のたくましさに改めて頭が下がる。

木曽福島駅前

木曽福島の駅前で、休憩を兼ねながら、雨宿りしながら、かき揚げそばを食す。雨が降ると、つい休む事が多くなる。雨は相変わらず強く傘を叩きつける。

木曽の桟

福島宿の先はしばらく国道沿いに歩く。しかし、歩くためのコースはよく考えられていて、歩道が無いと思えば脇道が続き、恐怖を感じる様な箇所は、全くなかった。

沓掛から国道はバイパスと分かれ、川沿いの美しい花崗岩で出来た巨石の連なる木曽の桟(かけはし)の跡へと誘う。

木曽の桟

真っ赤な橋のかかる対岸から桟の跡が見られると案内には書いてあるが、どれが桟のことなのか、結局わからずじまいだった。

わからなくともこの区間を歩くことは、楽しい。

大型トラックはバイパスのトンネルに流れていき、国道には数えるほどの車の往来しかない。川にせり出した川沿いの歩道を歩きながら、花崗岩でできた巨石を見ていると、人の無力さ、小ささを知る事ができる。

大型トラックでも運ぶ事が困難なほどの巨石は、人類がこの世に誕生する前からこの地に存在し、少しずつ川に侵食され、今では丸みを帯びているが、この先数百年後に同じようにこの地を歩く旅人が、この巨石を愛でながら、今私が感じていることと同様の感想を持って、この地を眺める。

そのような想像をしてみるとき、私は過去の旅人と、未来の旅人と、一瞬繋がる事が出来たような気がするのだ。

東京の街中で忙しく時間に追われて、何がために忙しく生きているのかわからない多くの人たちには理解されなくとも、同じ思いを過去に、そして未来に、共有できる人がいると想像できることは、今を生きる上での私の力にもなる。

とても不思議なことだが、東海道を歩いている、中山道を歩いている、と話すと、何のために?と聞かれる事がある。

そこで私は思わず絶句して、言葉を失う。そこで、何と説明すれば良いのかと考え込んでしまうのだが、古の人々と、未来の人々と繋がる事ができるような気がするから、なのかもしれないと、最近思うようになった。

健康のために歩いている。そう答えるのが無難な答えなのだろうけれども、誠実に応えようとすれば、時間旅行を楽しめるから。そのような答えになるように思う。わからない人には所詮わからない。

いえいえ冗談ですよ。歩くようになって最近体の調子がすっかり良いのですよ。そう答えると、周りの人たちは、きっと安心する。

トンネルを抜けたバイパスと合流してしばらくの間、歩道が消える。たいした距離ではないが、夜間歩くことはやめた方が良いだろう。とは言え、和田峠からの下諏訪への車道を歩く下りの恐怖を思えばどうということはない。

上松宿

御嶽海が上松の出身らしい。上松宿の中を歩いていると、何本もの幟がはためいていた。ちょうど千秋楽を迎える頃で、宿に帰りテレビをつけると御嶽海の一番が中継されていた。

御嶽海の幟

中山道は木曽川から一段も二段も高いところにあり、上松の宿から寝覚めの床を見ることはできない。

それにしても、寝覚めの床が浦島太郎の伝説にちなんでいるとは知らなかった。東海道を歩いているとき、横浜駅近くの浦島というところが浦島太郎の伝説の地であるという案内を見た。この東海道と中山道の二つの話を結びつけると、浦島太郎は横浜あたりの海で亀を助けて、竜宮城へ行き、玉手箱を手に入れた後、その後、東海道を北上して、中山道を旅し、この地まで来た時に、うっかり玉手箱を開いてしまい、おじいさんになってしまった、ということになる。浦島太郎伝説は奈良にも京都にも、各地に諸説あるようなので、例えば、ということだ。

確かに巨大な花崗岩を見ていると、自然と人の一生を考える。浦島太郎も諸国漫遊しているうちに、自分自身の残された時間に気づいてしまったのだろう。玉手箱をひっくり返すくらいのインパクトが、この巨大な花崗岩には、確かにあるのかもしれない。

上松の宿を過ぎてしばらくすると、小野の滝がある。何とも残念なのが、JRの鉄橋だ。滝の前を線路が横切っている。ここは広重が上松の宿として木曽街道六十九次で描いているようだが、今では線路が横切り、何とも言えない侘しさがある。

小野の滝

小野の滝の先でJRの線路の南側へ潜り、JRを見下ろす位置に木曽古道が走る。その頃には雨が止んではいたものの、草の露がひざ下を濡らす。それでもなかなか趣のある行程で、味わい深い。

木曽古道

一日中雨に降られ、少なくとも野尻までは行きたいと思っていたが、断念して、本日は倉本駅までとした。

倉本駅は無人駅で、自動販売機さえも置いていない。駅の周りにも何一つ商店らしきものがなく、駅前の集落に数軒家が建つのみだ。

曇天の無人駅でしばし列車を一人待った。

倉本駅