中山道一人歩き 5日目 坂本宿、碓氷峠、軽井沢宿、沓掛宿、追分宿(御代田)

横川駅を出ると、ちょうどJRバスの軽井沢行きが出発するところだった。

そのようなこともあったせいか、横川まで歩いてきた旧中山道をそのまま歩けばよかったのに、何も考えずに、バスの後を追って国道のほうに出てしまった。

間違えたことに気がついて、途中から関所の方に引き返したから良かったが、危うく碓氷の関所を通らずに、先へ行ってしまうところだった

坂本宿

坂本宿は一直線の道の両脇に、宿場跡が残されている。

国道の一本裏通りになっていることが多い宿場町だが、坂本宿は碓氷峠へ向かう道がど真ん中を走っている。

車だとついアクセルを踏みすぎてしまう道だ。歩くスピードで家の一軒一軒をじっくりと見る。

中山道にまつわる案内板がいくつもあり、一つ一つ読むと楽しい。

往時は、碓氷の関所を控えて坂本宿は大いに賑わったそうだ。

明治維新で国の形が変わり、制度が変わり、一気に宿場町は衰退した。この坂本の宿もそうだろう。

横川の釜飯は有名だが、もともとは鉄道の駅のホームで売られていた駅弁だ。

新幹線が開通して、鉄道が廃線になることが決まると、高速道路のサービスエリアでの販売に切り替えた。

このように、時代の変化に合わせてすばやく変わっていくことが重要だ。

江戸時代、坂本宿は碓氷の関を控えて、大いに賑わったそうだ。

往時の坂本宿の賑わいを想像すると、今の宿の有り様には物寂しさを感じる。

駅弁で大繁盛した釜飯店が、すぐに高速道路での販売に切り替えることができたのは、近くに坂本宿があったからなのではないか。

時代の変化についていくことができずに、衰退した坂本宿が身近にあった。その二の舞とならないために、釜飯店の人たちは、努力したのだろう。なだらかな斜面に沿って長く伸びる坂本宿の一軒一軒を覗きながら、そう思った。

旧碓氷峠

坂本宿が終わり、すぐに、山道へと入る。

江戸を出発し五日目にして、ようやく山道だ。

関東平野は広く、ここまで四日もかかってしまったが、ここから先は幾たびも峠道が現れる。

東海道は海岸線に沿って伸びているため、山の中を通るといった感じではない。常に海の風をどこかで感じながら歩くことが多い。

一方、中山道はその途中で海が見えることはない。

日本橋を出発して北上し、関東平野を抜けたあとは、里山を縫い、山中を踏み分ける。

その山歩きの始まりが、碓氷峠だ。

登り始めは、急勾配を一気に上る。一般的な山道だ。トレッキングシューズを履いてきてよかった。

舗装路をトレッキングシューズで歩くと、足を壊してしまうが、山道の場合には土の上を歩くので、トレッキングシューズの底の硬さが役に立つ。不安定な石や枝の上を歩くため、底が硬いトレッキングシューズは歩きやすい。

群馬県が設置した中山道についての説明案内板がそこかしこにあり、歩いていて飽きることがない。

ちょっと急な坂を上ると、案内板がある。

案内板があると、それが道しるべにもなっているので、ほっとする。

坂本の宿から一気に急勾配を上ったところに、足元に坂本宿を見渡せる、覗(のぞき)と呼ばれる場所がある。山道に入り、次から次へと急な道が続くが、ここで一区切り。かなりの高さまで上ってきたことを目で見て確認し、少しほっとする。

覗きの後は、一転してなだらかなダラダラとした上り坂に変わる。

急な坂を一気に上ることと比べて、なだらかな尾根道をゆっくり歩くことができるのは、実に気持ちが良い。

少し曇っている空の下、木々が頭上を覆い、暑い太陽がさすこともなく、実に快適に歩くことができる。

坂本宿からの上り始めこそ、山登りといった感もあったが、尾根道から先は、適度に道幅が確保され実に快適だ。

途中、軍事的に極端に狭められた堀り切りはあったが、ここは例外。人一人やっと通れるほどの幅しかない。ここで敵を止めたわけだから通りにくいのは仕方ない。

堀り切りを過ぎてしばらくすると、栗が原。明治天皇が巡幸する際に、日本で初めて交番が置かれた場所という。こんなところの交番勤務なんて心細いと思うが、当時はここが交通の大動脈。もっと多くの人々が往来していたはずだ。

明治天皇はここからめがね橋の方へ下りていったらしい。

坂本宿に下りる坂道は急で危ない。無難な選択だろう。

栗が原から先は軽自動車が一台通れるほどの道幅が続いている。

しばらくすると、山中茶屋跡。ちょっとした広場のようになっている。

十軒の茶屋があったと言うが、ざっと百人以上は常時居たのだろう。

車が通れるほどの道幅があるせいか、錆びきったバスが一台道脇の広場に捨て置かれている。

その先を見ると、立派な建物の跡。周りを見渡してみれば、腐ちかけた別荘がいくつか建っている。

軽井沢の先、群馬側にまで別荘地を広げようとして、開発を始めたところで断念したのだろう。

見晴台別荘地とおぼろげに読める看板が立っている。

その先で道は二手に分かれる。使用していたアプリの地図が和宮道をルートとして指し示したため、旧中山道からは離れる。

和宮道は、和宮が江戸へ向かうときに、谷間を通らないで済むように、高低差を少なくして作られた、なだらかなルートだ。

通常のルートは谷に下りてまた上るが、和宮道は同じ標高を保つように作られている。そのため、和宮道はかなり大回りのルートとなっている。なかなか碓氷峠につかないので、アプリをよく確認したら三角形の二辺を通るような道のりになっている。

ただ、道は良い。軽自動車が通ることのできるような道だ。途中からは実際に車の轍が残る現役の林道になった。

軽井沢宿

碓氷峠から軽井沢側は別天地だ。軽井沢という地名が、いかにブランドとしての価値を持っているかを如実に示している。

上州と信州の分水嶺にもなっている碓氷峠から先は、もはや観光地だ。避暑地にお出かけしてきました、という装いの人々の中を、山から抜け出してきたような格好で歩く。

高原の避暑地にありがちな、機関車をもじったような観光バスが、エンジンを吹かして上ってくる。

観光客はそのバスに乗るのだが、私は街道歩きをしているので歩く。するとその脇を煽るようにすれ違う。バスが有るのに歩くなんて、いい根性しているじゃねえか、と言われたような気分になる。

近くを煽るようにして上っていったバスだが、下りでは背後から迫るので、その姿が見えずに、余計に恐怖を感じる。

何もそんなに幅寄せしなくても良いではないか、と思わず恐怖に首をすくめるほどのすぐ脇をすり抜けて、下り坂なのにアクセルを吹かしてカーブの先に消えていった。

やがて、ショーハウスの辺りから、軽井沢の観光客で辺りは埋め尽くされ、テンポよく直進するのが困難になる。

一度道に迷って、このメインストリートに車で入り込んでしまって、抜け出るに抜け出せなくなり、ぐるっと碓氷峠手前まで上って、国道の方へ大遠回りで抜け出したことを思い出す。歩きでも人がぶつかってくるくらいだから、ここを車で通ってはまずかったよなと、振り返り思う。

車と歩きとではテンポが全く異なる。歩きでないと、その街の細部をよく観察することはできない。

メインストリートも終わり、やがて別荘地らしい風景の中を進む。空気はカラッとして、気持ちが良い。車で何度も通った道の脇の歩道を歩く。まさかここを歩くなんて。車で通るときにここが中山道だとは思わなかった。

長野県に入って、中山道の案内の標識がわかりやすくなる。群馬県の案内も良くできているが、長野県の案内は漏れがない。道を迷いそうなところには、必ず中山道の方向を示すボードが目に入る。道を渡ることもそこには記されている。

途中コンビニでおにぎりを二つ買って食す。さすがに昼も過ぎて朝からバナナ一本では体がもたない。

離山の交差点で軽井沢駅前からの道に合流すると、しばらく先でしなの鉄道の線路を越えて、線路の南側をしばらく進む。

車が通ることもなく、のんびりと軽井沢の風を受けて快適に歩を進める。

沓掛宿

中軽井沢の駅のすぐ手前で、しなの鉄道の線路をくぐり、再び国道側へと出る。

中軽井沢駅前から草津方面へと道は分岐する。車で来たときには、いつもここで渋滞する。

交差点近くに高速バスの停留所があったので、しばらくそこのベンチに腰掛けて休む。京都行きのバスが出ているようだ。この交差点の信号から渋滞が伸びている。

ここはいつも避けて通るため、交差点で止まることなどめったにない。せっかくなのでベンチでのんびりぼーっと渋滞を眺める。

中軽井沢と少しだけおしゃれな名前にはなっているが、旧来は沓掛宿だ。「くつかけ」と、「なかかるいざわ」では、ずいぶんと印象は違う。

渋滞をずっと眺めていてもなんの面白さもないので、再び歩き出す。

国道から脇にそれて、一旦合流し、再び軽井沢バイパスとの合流地点から脇にそれる。

車で何度も往来してきた道から、細い道へと分け入ることはまずない。歩き旅だと、車では一瞬にして通過してしまう場所を、数秒かけて通過していく。その分、じっくりと見ることになる。

中軽井沢の駅前方面から信濃追分に向けて渋滞しているときなどは、一本南側の道へ入っていたのだが、いつも抜け道として使っていたその道が旧中山道であったことを知る。

見覚えのある交差点だ。ここは見通しが悪いから曲がりにくいんだよな、と思いながら信号待ちの車を横目に思い出す。

追分宿

信濃追分の駅から三キロほどのところに早稲田大学の寮と練馬区の保養施設が仲良く並んでいる。

練馬区民なので、この保養施設へはときどき訪れる。ベルデ軽井沢という。

たいてい車で訪れるのだが、新幹線で行く場合もある。軽井沢まで新幹線に乗り、しなの鉄道に乗り替えて、信濃追分駅から歩くと約三十分で到着する。

高速バスだと国道沿いにバス停があると聞いていたが、ベルデ軽井沢へ入る道のすぐ横にそのバス停はあった。これならバスで来るのも良いかと思った。

今回もここに泊まろうと思ったのだが、予約が一週間前で締め切りということで諦めた。代わりに今日は軽井沢に宿を取り、このあと御代田駅まで歩いたあと、軽井沢まで電車で戻る。

東海道を歩いたときは、連続して十八日間一度も乗り物に乗らずにホテルを泊まり歩いた。その方が趣がある。できれば中山道もそのようにして歩きたかった。

でも、中山道の場合、なかなか良い場所に、リーズナブルなホテルがない。なので、このような方法を取ることになる。

追分宿は沓掛宿、軽井沢宿と比較して、その賑わいは三宿の中でも一番で、旅人の相手をする飯盛女が、三宿の中では最も多かったそうだ。

追分宿は国道から分岐し、一本入った通りにあり、ひっそりとしている。

江戸を出て、武蔵、上州ときて、信州に入り、ようやく街道の宿らしい雰囲気を味わえる宿にやってきた。

とても賑わっているということではない。宿の両側に当時からの雰囲気を醸し出す店が並んでいるというわけでもない。宿の中は人通りもなく、車もときどき通り抜けるくらいだ。でも、そのなんとも言えない寂寞感がたまらなく良いのだ。

早稲田大学や練馬区の保養所があるほどなので、この周囲には別荘地が広がっている。

日が西の方角から差し込む。買い物袋を手にぶら下げたおばさんが、どこで購入したかはわからないが、追分宿を横切り、別荘地への坂道を上っていく。

人の往来の激しい町中の宿場町では想像力が働かない。車の騒音にイマジネーションがかき消される。

人の気配のない、静かな宿であればこそ、古の人々が眼の前で動き出すのだ。

旅人の手を引く飯盛り女。夕方の日も暮れようというときに、今日はここで泊まることにするかと、飯盛女の誘う旅籠へと足を向ける。

わらじの紐をほどき、足を水で洗う。畳の上で大の字になって寝転ぶ。

今日は碓氷峠を越えたせいか、随分と疲れた。早くシャワーを浴びて、大の字になりたい。そう言えば、食事もおにぎり二個を食べただけだ。お腹が減ってきた。

追分宿の終わりには、北国街道との分岐点がある。長野善光寺方面はここから右手へ。中山道は左手へと折れていく。

追分から、しなの鉄道御代田駅までは、一本道の下り坂だ。

次の小田井宿の手前になる。

明日は御代田駅から歩き始める。

長野県は説明案内板も、道案内も、実によくできている。ところどころ、迷いそうなところには必ず標識があり、道に迷うこともない。余計なストレスなく歩けるということは実に素晴らしい。