中山道一人歩き14日目 加納宿、河渡宿、美江寺宿、赤坂宿、垂井宿、関ヶ原宿

加納宿

加納宿から先は、ひたすら街中の道を歩く。岐阜の市街地だ。山の中のような寂しさはないが、これと言って何か楽しみがあるわけでもない。

日本の街は、どこを歩いても、ほぼ同じ規格で、道幅も同じ、歩いている人の格好も同じ。でも、ときどき聞こえてくる言葉が少しずつ変わる。

岐阜市内

岐阜の場合、まだ際立って関西風ということはない。名古屋に近いので、関西の風はまだ感じない。

東海道の場合、鈴鹿峠を越えると、言葉が変わった。そばのつゆが白だしに変わった。中山道の場合、どこで変わるのだろう。やはり関ヶ原の先、不破関あたりなのだろうか。

岐阜駅のお蕎麦屋さんで蕎麦を頼んだら、醤油色をした蕎麦つゆが出てきた。関東と同じ色合いだった。

河渡宿

岐阜の市内を抜けて、しばらくは住宅街の中を歩く。まるで変化はない。そして、少し川幅のある長良川を渡ったところに、河渡宿がある。

長良川

積極的に盛り立てようという意気込みまでは無いように思える宿だが、のぼりは作ってあり、宿の方へと誘導してくれる。

あまり期待を持たずに訪れた河渡宿だが、その中の一軒の家の前で、足が止まった。小学生が作成した中山道についての研究が置かれていた。

日本橋から京都まで、東海道も中山道も、日本橋から京都まで百二十も宿はあるというのに、誰一人としてこのような研究を行い、それを旅人に見せようとした小学生はいない。初めて見た。

夏休みの自由研究で取り上げたのだろうか。実際に岐阜県内の中山道を自転車で走ったらしい。

子供の頃から、こうしたちょっとした調査を絡めた冒険をすると、机に向かって学ぶのと違って、体感したことを言葉で表現できるようになる。

文部科学省がゆとり教育で目指していたものは、このようなことが、自主的に出来る子どもたちを育てることであった。にもかかわらず、教師に余裕と指導力がなく、家庭に余裕と指導力がなく、結局頓挫した。そしてまた、知識偏重の詰め込み教育に戻ってしまった。

しかし、文部科学省の思いとは関係なく、このようなことができる子どもが、河渡宿で育っていた。

自分の体を通して感じたことには説得力がある。やる気のない宿かとはじめは思ったが、このような子供が一人いるだけで、十年後には変わってくるだろう。これを読んでいたら、住んでいる人の思いも伝わってきて、すっかり河渡宿の印象が変わった。

美江寺宿

特段何もない道が続く。黙々と念仏を唱えるように歩く。修行僧が山行をすることと似ているような気がする。歩きながら無心になることは、実に難しい。前の週に仕事で起きた問題が、頭から離れない。ずっとそのことばかりが頭の中に浮かぶ。

仕事から離れた、せっかくの自由な時間なのに、トラブルメーカーのしでかした事案を週明けに戻ったら解決しなければならない。

考えなくても良いのに、考えてしまう。延々と同じ疑問が頭の中で堂々巡りを始めて、頭の中まで熱くなる。

調子が良い時は頭の中で音楽が流れる。環境にも影響を受けるのかもしれない。山の中にいる間は、ずっとモーツァルトが流れていた。

街の中のノイズだらけの環境に入ると、街中のノイズに共鳴して、考えたくもない仕事のことが頭に浮かんでくるのかもしれない。

そうなると、純粋に街道歩きを楽しもうと思ったならば、仕事をやめた後に始めなければならないことになってしまう。でも、仕事をやめたところで、別の雑念が必ず沸いてくるに違いない。

人生とは雑念で出来ている。人は雑念の塊と言えるかもしれない。雑念が湧いて来ないようになることを、解脱というのだから、仕方がない。所詮は煩悩の塊の凡人でしかないのだから。

そんなことを考えてもみる。そんなことを考えている間だけは、仕事のトラブルのことは考えなくてすむ。人の思考とは不思議なものだ。

そんな迷いごとの海の中で溺れそうになっているうちに、田んぼの中を抜け、美江寺宿へとたどり着いた。

美江寺宿

美江寺宿は大きくクランク状になっており、昔ながらの理想的な宿の形状を今も保っている。

お寺の境内には、高札場があり、その下には説明書きがある。読むと楽しい。

赤坂宿まで荷物を運ぶといくらかかるか。親兄弟を大切にしろ。怪しいもの見かけたら通報しろ、など。

当時の人がどのようなことを考えていたのか、読みながら想像すると楽しい。

高札場は宿場ごとに数多くあるが、美江寺宿のように、具体的な解説まで載せているところは珍しい。たいていの場合は、同じデザインでそれっぽいことが書かれている板が、掲示されているわけだが、何が書いてあるのかまではさっぱりわからない。

赤坂宿

長良川の辺りから関ヶ原方面を眺めると、まだまだ先は遠いと感じていたのに、赤坂辺りになると、気分が落ち込むほど小さく見えていた美濃と近江の国境の山々が、かなりの大きさで見えるようになってくる。

赤坂宿は今の街で言うところの大垣の近郊になるが、大垣の数キロ北側を通る。従って、美江寺宿と赤坂宿の間は大垣郊外の主に田んぼの中の田舎道を歩くことになる。

歩道のないところもあり、朝の通勤時間帯などは、猛スピードの車に煽られて、かなり恐ろしい。岐阜県には信号のない横断歩道で止まる習慣が無い。愛知県ほどではないが、愛知県に近いだけある。

巨大自動車メーカーの創業の地に近いせいか、車優先の社会を作ってきた愛知、岐阜は、人よりも車が優先される。自動車メーカーは率先して人に優しい社会づくりに舵を切るよう警察と協力して自治体に勧めるべきだろう。

歩道などない

田園風景の中を歩くのは気持ちが良い。山道は森の中の気持ちよさがある反面なんとなく一人で薄暗い細い道を行く怖さもある。

田んぼの中であれば、怖いことは何もない。車くらいだ。

あとは太陽だ。晴れた日などはたまらない。じりじりと顔が焼け、夜風呂に入ると痛い。

曇り空がちょうど良い。暑くもなく、寒くもなく。傘をさすこともなく。帽子をかぶらなくても良い。

赤坂宿は今でも賑わっている。しかし、かつては鉄道が走っていたところが、廃線になり、草がぼうぼうと生茂るところもある。

国破れて山河有り、城春にして草木深し、と、思えてしまう。やはり過去の栄華ほどには栄えていない。今、その中心は大垣なのだろう。

インターネットで流通が変わり、今やデジタルネイティブが多数派を占めるようになった時代だ。舟と街道で流通を支えていた赤坂宿のその役割は、おそらく明治の頃には終えていたことだろう。

何事も最終的に息の根が止まるまでには、かなりの時間が要する。

私の命がある間は、おそらく郵便は無くならないし、電話もなくならない。新聞も映画館もなくならない。でも、百年後には、まるで違ったものに姿を変えていることだけは間違いない。

赤坂港跡

赤坂宿は宿の姿を今に伝えてはいるけれども、当時の重要性は、今の私たちに知る由もない。まるでわからない。想像するしかない。それもまた、街道歩きの楽しみの一つだ。

垂井宿

赤坂宿を過ぎてしばらくすると、垂井宿となるが、その直前に京からの道が、中山道と美濃路の大垣方面へと分かれる垂井の追分がある。

垂井追分

関ヶ原の合戦の前夜に赤坂宿の近くを流れる杭瀬川で前哨戦となる杭瀬川の戦いが行われ、西軍が勝利した。

その後、家康が関ヶ原方面へ移動することを察知した三成軍は、大垣城から夜通し移動して、関ヶ原に先回りして態勢を整えたという。

しかしながら、戦闘用の装備を持った軍隊が、夜通し移動して、徹夜のままで戦うというのは、かなり無謀なことだ。このようなことを実行してしまうところが、頭の中でいろいろとことを考えることの多い石田三成の限界だったのではないかと思う。

大垣から関ヶ原までは十数キロある。それも先回りするために、山の裏手を通ったそうなので、中山道や美濃路のような、しっかりと整備された道ではなかったように思う。

布陣を見ると、西軍が勝つこと間違いないと、のちの欧州の軍隊の参謀たちも判断するほど、石田三成の率いる西軍が有利な陣形だったようだ。

三成は、天地人のうち、地の利は得ても、人の利は得られず。よって、天の利も得られなかった、ということになったのだろう。

相川の江戸方に、垂井の追分があり、相川を挟んで京方が垂井宿となる。

垂井宿

関ヶ原宿

垂井宿を出ると、徐々に緩やかな上り坂となる。少しずつ坂を上ることになるが、きつい上りというほどではない。

長良川から見えた関ヶ原付近の山の形が大きくはっきりと見えてくると、その足元付近が関ヶ原となる。

街道を歩いているだけでは、関ヶ原の全容はよくわからない。街道からは、家康が最初に布陣した桃配山が中山道から少し見上げたところに見える。でも、そこから三成の本陣は見えない。

桃配山

その後、家康は関ヶ原駅の近くに移動したが、実際に歩いてみても、桃配山から関ヶ原駅までは、そうたいした距離でもない。

関ヶ原という場所は、自然と関ヶ原の戦いについて、考えさせる土地柄だ。いつ宿に入ったのか、どこから宿が始まったのか、よくわからないまま、関ヶ原駅に着いた。本日はここまで。