世紀末 Rome ローマの洪水
バスタブ
実はバス付きの部屋に泊まる事は少ない。たまたま泊まる事はあるが、進んで選ぶ事はない。大抵が、共同シャワー、トイレの部屋で、なぜなら、そのタイプが一番安い。
バス付きの部屋と言うと、新婚旅行が思い出される。いつもは安宿にしか泊まらない私だが、さすがに新婚旅行だ。自分で滞在ホテルを予約した。それも全てが四つ星ホテル。パリ、フィレンツェ、ローマとまわった。
ローマの町は、古代の遺跡の中に、現在の街並みが散在しているようなところで、歩いて回るとかなり広い。私は旅行先で、大抵はだらだらと過ごすのだが、なぜかそのときは、時間を惜しむように、二人して、トレビの泉、闘技場、スペイン階段、バチカンと、団体旅行並みの密度で、街を歩き回った。
夜、ホテル近くのレストランで、舌がよろけるピザやパスタを食べ、日本ではオーダーできない値段の、イタリアワインを体に染み込ませ、二人して部屋に戻ったときまでは、まだ意識はしっかりしていた。
部屋の鍵を閉め、チェーンロックまで閉めて、安心してしまったのだろう。私は一息ついて、バスにお湯を入れ始めたが、その直後から意識が飛んでいる。二人とも服を着たまま、熟睡してしまった。
突然、激しく扉を叩く音と大声で、私の意識は揺り動かされた。(…誰だ、部屋を間違えて、騒ぐやつは)と、夢の中で、思っていると、チェーンをはずそうとする音が聞こえる。
強盗?
恐怖から飛び起きて、扉の前に走り寄ると、目の前でじゃらんと、チェーンロックがはずれ落ちるのが見えた。
どんなやつが飛び込んでくるのかと、身構えると、男は部屋に入るなり私に構わず、すぐ脇のドアを押しあけ、バスルームに入った。
何をするのかと覗いてみると、バスタブからお湯が溢れ出し、それがドアの隙間から、廊下へと流れ出している。男は流れっぱなしになっている蛇口を閉めて、バスの栓を抜き、私の目の前に大きな顔を突き立ててわめいた。
しかし、そんな事をしている場合じゃない。すぐに男は部屋を飛び出し、バスタオルを使い、廊下の洪水を塞き止め始めた。
武者震いとともに、完全に目が覚めて、慌てて洪水の流れ行く先を辿っていくと、なんと部屋を五つ横切り、その先のエレベーターホールへと、うねっている。ホールの角を曲がると、そのまま、エレベーターのドアの向こうへ、お湯が滝のように流れ落ちていた。
悪夢とはこのことだ。「損害賠償」の四文字が、エレベーターの扉に、くっきりと浮かび上るのが見えた。そして、翌日は帰国の日だった。
「ホテルともめて、飛行機に乗れなかったらどうしよう」
そう思うと、頭は冴え、次から次へと、妄想が攻め寄せて来る。
朝まで、ありとあらゆるケーススタディーが、浮かんでは消えた。
杞憂。
幸い何事もなくチェックアウト出来た。しかし、恐ろしいのは我が奥さんだ。
事件の翌朝、彼女は言った。
「何かあったの?」
何事にも動じない彼女こそ、わが人生最高のパートナーと確信した。(1995/4)
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