出来ないことが出来るようになる喜び
新年になると何か新しいことを始めたくなる。
昨年はしばらく途絶えていたブログを再開したが、言葉通りの三日坊主に終わった。
今年はさてどうしたものだろう。
ブログ以外のものは、なぜか始めたことが習慣化すると続く。
朝の散歩はもう13年続けている。
その朝の散歩の途中にいくつか公園がある。そこにはぶら下がり健康器のようなぶら下がり棒があって、時々そこでぶら下がって、腰を伸ばす、ということをやっている。
朝これをやると気持ちが良い。
若い頃はぶら下がり健康棒なんて、じいさんの使うものと斜めに見ていたが、私もじいさんの気持ちがわかる歳になってしまった。
そのぶら下がり棒のそばに鉄棒があり、そこでも腕立て伏せの真似事のようなことをすることにしている。
通勤をしなくなり、そのため鞄を持ち歩かなくなり、腕の筋力が衰えていることを実感するので、少しは腕を鍛えようと思って始めた。
週末になると、いつも私より少し年上くらいに見えるおじさんが、その鉄棒で懸垂をしている。私は鉄棒に掴まって、腕をひいたり伸ばしたりしているだけだが、そのおじさんは2本の腕で体を持ち上げ懸垂を始めるのだ。
私は何も気にしていないような風をして隣で腕立て伏せのようなことをしているのだが、内心では、いつも、すげーと思っている。
ある日、ぶら下がり棒にぶら下がっているときに、ふと一回くらいなら懸垂できるかなという考えが頭をよぎり、グッと腕に力を入れてみた。
身体はピクリとも動かない。
それでも、うーんと力を入れてみるのだが、5センチくらいだけ顔の位置が上に上がった。
中高生のころなら懸垂も、三十回くらいは平気でできたはずだった。
ところが一回もできない。なんだかとても恥ずかしい。
それが12月の年末ころだったかと思う。
それからは、毎日ぶら下がり棒の前を通るたびに、懸垂チャレンジを始めた。
0回が1回になり、5回になり、10回になり、少し足踏みして、また5回くらいしかできなくなり、少し休むといきなり15回くらいできるようになり、と毎日通る都度チャレンジしてきたけれど、およそ一ヶ月くらいたった今朝、とうとうなんちゃって方式で30回続けてできるようになった。
なんちゃって方式というのは、棒の位置まで顔をあげていなくても、体がちょっとでも上がれば一回と数えるという、かなり甘ちゃんな独自ルールを適用している、という意味。
それでも一度もできなかった懸垂がなんちゃって方式とはいえ、30回もできるようになったことは、とても嬉しい。
歳を重ねると、昔できたことができなくなったけれど、努力をした結果、またできるようになった、という倒錯した喜びを楽しむことが出来るようになる。
昔できたのにできなくなったことならいくらでもあるので、また別のできなくなったことを見つけて、年寄りにしかできない倒錯した喜びを追求していこうと思う。