中山道一人歩き 17日目 草津宿、大津宿、京都三条大橋
朝起きると曇り空。
晴れていると気持ちが良いものだが、街道歩きの場合には、少し曇っているくらいの方が良い。これが真冬ならまだ話は違うと思うが、まだ秋の初めの頃であれば、快晴の日中は暑くてたまらなくなる。
まだ通勤や通学の人々が歩く八時台、京都へ向けて歩き始めた。
不思議なもので、同じ道を歩いてみれば、ここを歩いたことがあると、確実にわかる自分がいる。昨年は信号のこちら側で待った、などと、とても細かなことまで思い出す。
この南下する過程が、もどかしい。住宅街の中をひたすら歩く。住宅街の中なので特に何か楽しいことがあるわけでもない。
それでも、クネクネと住宅街の中を、東海道の案内に導かれて、進むと、やがて瀬田の唐橋へと続く車の往来のある道路に出る。
対岸に渡り。今度は再び北上する。南下して北上するこの過程を舟で一気に渡ってしまいたい、という気持ちは誰しもが持つ。しかしながら、実際には歩いて回ったほうが、確率的には早いことが多い、ということは、理解できる。急がば回れ。これは何ごとにも言える。
商店街を抜けると、やがて住宅街へと入っていく。琵琶湖はワンブロック向う側にあるので、歩いているところから湖は見えない。
しかし、湖岸を走る、通りを横切る車が交差点で時々目に入ったり、湖岸に建つマンションやビルなどを見て、あの辺りが湖なのだなと、その位置を知る。
再び北上し、上りきったところで、今度は左方向へと折れ曲がり、その先にある大津の宿を目指して進む。
途中、義仲寺がある。木曽義仲の墓と義仲を敬愛した芭蕉の墓がある。
義仲の生まれ育った木曽路を通り、巴御前が子どもの頃遊んでいた巴淵を覗き込み、いくつもの峠を越えてこの義仲寺の前に立ったとき、芭蕉は果たしてどのような感情を持ったのだろう。
中山道を歩くことで生まれる連帯感のようなものが自然と育まれていたのではないかと思う。
私の中には先人に対する同じような感情が存在する。明治天皇、維新の志士たち、皇女和宮、芭蕉、西行。歴史の教科書で何度も目にした人物たちと同じ道を歩いたという足裏に残る感覚は、特別な感情を生み出す。
大津の宿では、司法の独立の例として、教科書でも取り上げられる、ロシア皇太子を警官が切りつけた、大津事件の現場の前を通る。
その先で、東海道は直角に折れ曲がる。そして逢坂の関に向けて、緩やかな上りが始まる。
蝉丸神社は坂の上り始めの上社、峠付近の下社とに分かれている。峠にはトイレがある。その脇のベンチで一休み。
昨年は、この先が京都だということで、この段階で喜びが湧き上がってきたが、今年はまだまだ先があることを知っている。
逢坂の関を京に向かって下り始めると、高速道路が見えた辺りで、左の側道へと入っていく。
歩道橋を渡ると、一気に京都が近くなる。山科の駅に近づくと、その頃には、すでに京の都の風を感じる。
山科駅の手前に徳林庵地蔵堂があり、ここのベンチで一休みさせていただく。昨年と同じベンチに腰を掛ける。何一つ変わっていない気がする。ここは京の七口の一つとされ、京への悪霊の侵入を防ぐために建てられたそうだ。
そこから一直線に京の街へと突き進みたいところではあるが、天智天皇陵の辺りから、か細い道へと東海道は姿を変える。
心細い山あいの道、崖下を車一台がやっと通れるような道幅でまっすぐに伸びる。
いよいよ京都の市街地だ。道は大きく弧を描き、三条大橋に向かって左手に曲がる。その曲がり角には、ウェスティン都ホテルが大層な陣容で聳える。その大きさに不釣り合いなバックパッカーのカップルがホテルの階段を降りてくる。
平安神宮に向かう道を横切ると、やがて坂本龍馬とお龍さんの結婚式場跡の碑の前を通過する。
次の交差点を渡った頃から、三条大橋付近の建物が見えてくる。一度来ていると、その場所の様子がはっきりと分かるので、あと少しだということがわかる。そして最後の信号を渡ってゴール。
昨年とはまた違った喜びだ。できた。手応えを掴んだ時の喜びにも似ている。
ゴールは終わりではなく、また次の旅への始まりだ。
京の街をホテルに向かい歩きながら、そのようなことを考えていた。
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