旅から得るものは時とともに変わる
旅もいつしか日常へと変わる
今は五十代ですが、若い頃の旅と感じることが随分と変わってきていることを感じます。
若い時は、なんでも新鮮で、なんでも新しく、見ること聞くことすべてが喜びに満ちています。
ところが、旅は重ねるごとに、その新鮮さは習慣に取って代わり、非日常であるにもかかわらず、またもう一つの良くある旅の中の自分というものに落ち着いていくのです。
良く考えてもみれば、日本にいる時も自分の関心に従って、行動を起こしていくわけですから、例え旅の途中であったとしても、自分の関心は同じところに向かうものです。
例えば、ガジェットに興味があれば、新型iPad miniは売っているかな、いくらだろうと、お店を覗き込むことになるし、アートに関心があれば、美術館へ自然と足は向かいます。
ちなみにiPad miniは日本の一割り増しくらいの値段、ユニクロは日本の二割り増しくらいの値段でした。
例えば、シンガポールへ出張したときに、半袖のシャツしか持って行かなかったため、オフィスが凍えるように寒かったので、現地のユニクロで、上から羽織る長袖の服を買ったことがあるのですが、その時の値段もおおよそ日本の二割り増しくらいでした。
KLのユニクロを見かけると、その値札を見て、シンガポールと相場が同じくらいだなと、バイヤーでもないのに、確認をしたりします。
年を重ねると、この引き出しが自然と増えてくるので、目の前の事実をそのまま受け止めず、いったん過去の経験と照らし合わせるということを、無意識のうちに行います。
これは良いことではありますが、時代背景が大きく変わるときには、足かせとなって、その人の判断を歪めることがあります。なんでも良い面とそうでない面があり、白黒はっきり断言できにくくなるのもまた、経験のもたらすものでもあります。
しかしながら、結局人は生まれ落ちた時代の始点を元に経験を積み重ねていくので、それが良いとか悪いとかということではなく、それが人生だ、としか言えないのでしょう。
早く始めた方が良い
とすれば、旅は出来るだけ若いときに始めるのが良いのかもしれません。
同じ場所で長く暮らすと、自分が長く過ごしたその場所からしか物事が見えなくなります。
年を経てからの旅は、その長くいた場所との比較を繰り返すこととなり、結局のところ、日本のここが良い、日本のここはダメだと、なるわけです。引き出しがいくつかあれば、いろいろな比較ができるので、そのような決めつけは少なくなります。
見えるようになることもある
年を経てからの旅には、若いときには見えなかったことを知るという側面もあります。
腰を痛めたせいか、アジアの街がやたらと段差だらけで歩きにくいということを、この歳になるまで考えたこともありませんでした。
若い時は身軽で体力もあり、街のデコボコなど気にもなりませんでした。
しかし、街を歩きながら、スーツケースをその都度持ち上げたり、転がしたりと繰り返すうちに、日本のあの駅まで続くゴロゴロと引っかかるスーツケースの車輪の抵抗さえ、なんと素晴らしいものであるかと感じるようになります。
私は社会人生活の最初に外資系企業で9時5時の生活をしてしまったがために、そのあと入ったテレビ局で毎晩12時近くまで働く生活に愕然としたことがあります。担当していたスポーツ中継の終わりが10時頃なのでいた仕方ないのですが、その頃は9時5時の勤務が標準と思っていたので、その後さまざまな経験を重ねるまでは、その感覚がなかなか変わることはありませんでした。
旅さえもいつしか非日常から日常の一コマになってしまう。幾千日も見上げた旅の空を見上げて、少しばかり寂しい気持ちとなっています。