甲州街道44次 Day1 日本橋–内藤新宿–下高井戸–上高井戸–布田五ヶ宿–府中

日本橋

東海道の歩き始め、中山道の歩き始め。それぞれ初日はよく憶えている。両日ともとても天気の良い日だった。

東海道はまだ夏の余韻の残る時期。少しだけ涼しくはなっていたが、日中の気温は三十度を越えていた。

初日ということもあり、川崎までを歩いた。ところが川崎までのわずか二十キロ程度の距離にもかかわらず、半日後、足にはマメが複数発生し、その後の腰痛の原因となった。痛い思い出となった。

中山道を歩き始めたのは三月だった。子どもの入試の補欠合格発表の日だった。つまり二次試験には合格せず、一縷の望みを託してこの日を待っていたのだ。

中山道を歩き始め、大勢の学生が出入りする東大の赤門の前を通り過ぎ、板橋宿を通り、荒川を渡る頃に子どもから連絡があった。

だめでした。

荒川を渡る橋の上にはまだ三月の冷たい風が吹き荒び、遠くに見える山には、雪が残っていた。そして、その後におまけの小雨が降り出した。

とにかく寒い一日だった。

道標

東海道と中山道はそれぞれ反対方向へと進んでいくのだが、甲州街道は日本橋を東海道方面へ歩き始め、一つ目の交差点を皇居方面右へと折れる。

スタート地点の日本橋の真上を通る高速道路には、日本橋と大きく書かれた看板があり、その高速道路の道路と道路の間に国道の起点を示す道標がある。

土曜日の朝七時ということもあり、車の数も少なく、道のど真ん中にある道標の下まで行き、記念の写真を撮った。

道標

東海道の時も、中山道の時も、心に余裕がなく、その存在を思い出すことがなかった。しかし、三回目ともなれば、多少の余裕も出てきたのか、道標の存在を思い出すことができた。

日本橋を出て、東京駅方面に折れて、東京駅八重洲口から駅構内を通り丸の内側へと出る。

この辺りは、以前丸の内の会社に勤めていた頃、昼休みに何度となく通った道筋だ。

昼休みに歩く時の気分と、土曜日に街道歩きを目的に、ここは昔甲州街道だった、と思いながら歩くのとでは、同じ道でも受ける印象はまるで違う。

今では、そこが街道であったことを感じさせるものはまるで無いが、自分の心の中で、そこを草鞋を履いた旅人が歩いていた道なのだと想像しながら歩くと、なんとなく違った風景が見えてくるような気がするから不思議だ

和田倉堀から半蔵門

皇居の堀が見える位置に来ると、大抵はそのまま皇居方面へと広い芝生の公園を踏み分けて歩いていくものだが、甲州街道は和田倉堀に沿って、日比谷方面へと向かう。

皇居ランナーも滅多に走らない堀の脇を、黙々と歩く。丸の内のビルは、昔は皇居の中が覗けない高さで揃っていたが、今ではそのような高さ制限も無いようだ。実際には、皇居の中は樹木が生い茂り、中を覗き見できるということはないのだろう。

日比谷公園の脇で右に折れ、今度は半蔵門方面へと向かう。

この辺りから徐々にランナーが行き交うようになる。私も皇居の周りを走っていたことがある。

港区に住んでいた頃は、皇居まで来て、一周して家まで戻ると十三キロ。半蔵門から新宿まで走り、その後、恵比寿駅の近くまで走った後に、家まで戻ると二十一キロのハーフマラソン。この二つのコースを好んで走っていた。

半蔵門から桜田門までは下り坂になる。二重橋あたりから走り始めると、千鳥ヶ淵のあたりが坂のピークになり、後半、半蔵門から桜田門にかけては下り坂のハイスピード区間となる。

なのでこの辺り、向こうから走ってくるランナーは、結構な速度で向かってくることになる。そんな記憶が残っていたので、邪魔にならないように道路の端の方に避けて歩いた。

柳の井

数十回と走って通ったはずだが、途中、井戸の跡があったことは知らなかった。かつて、堤の下に名水の湧き出る井戸があったそうだ。柳の井という。走る速度では見逃すことも多い。

内藤新宿

半蔵門から四谷方面へと向かう。新宿方面へ向かって左側を歩く。左側を歩くと日陰になる。

熱中症予防に帽子を持ってはきたが、かぶると暑い。日向ではひさしが影を作ってくれるが、頭が暑くなる。日陰の中であれば、帽子を取って歩くことができる。

半蔵門から新宿までは案外近い。東京駅から中央線に乗り、新宿へ向かうと、蛇行しているため結構な距離を走るが、甲州街道は半蔵門から一直線に新宿へと向かっている。その距離はわずかに四キロ。ちょうど一里の距離だ。歩いても一時間はかからない。

新宿三丁目の交差点あたりに、青梅街道との分岐点となる追分があり、甲州街道は新宿駅南口の方面へと分かれていく。

旧甲州街道の近くを通る国道二十号線は、いつも混んでいるので、車や原付で甲府方面へ出かけるときは、いつも青梅街道を経由する。かつての旅人も同様であったそうで、甲府まで青梅街道を選ぶ旅人も多かったようだ。

新宿駅南口

新宿を通り、初台へと差し掛かる。巨大なビルがいくつも建っている。甲州街道が街道として機能していた頃、ここがどのような様子であったか、今では想像するのも難しい。

子どもの頃、淀橋浄水場跡として、野原になっていた場所は、今では高層ビルの建ち並ぶビル街に変わっている。

わずかに四十年くらい前の話だが、その当時は、まだ京王プラザホテルしか、高い建物はなかった。京王プラザホテルを見上げながら、友達と野球をしたことを憶えている。

初台を通り過ぎて、笹塚の交差点の角に牛窪地蔵尊がある。中野からの道と甲州街道が交差する地点で、この辺りに行き倒れの人が多く発生したそうだ。

牛窪地蔵尊

日本橋から甲州街道を歩いてきて、ここで初めて街道らしい案内表示板を見た気がする。

甲州街道は、あまりにも日常使われる道路と一体化しており、ここがかつての街道であったことを意識する機会が少ない。

東海道であれば、港区から品川区にかけて、一定距離ごとに案内板を設置し、旅人にその土地の歴史を伝えてくれているが、新宿区、渋谷区ともにそのような予算がないのだろうか。

甲州街道で驚いたのが、ぼろぼろの歩道橋。錆びて階段に穴の空いた歩道橋がそのまま放置されて、おそらく使用されている。しかし、歩道橋の登り口には雑草が生い茂り、登っていく途中で、階段の下に穴が開いて見える。

このような歩道橋はいくつか見かけた。杉並区、世田谷区と通過したが、どの区であったか、はっきりとはしないが、とにかくぼろぼろで、錆止め、ペンキを塗れば良いのにと、幾度となく思った。

歩く速度で街を歩いていると、各区の抱えるさまざまな状況が見えてくる。過去から現在をその場所に重ね合わせながら歩く街道歩きは、時間旅行をしながら現在の問題にも気付かせてくれる。

下高井戸宿、上高井戸宿

下高井戸宿、上高井戸宿を過ぎると、甲州街道は高速道路とは枝分かれし、空がすっきりと広くなる。環状八号線の先で旧甲州街道は、国道から更に枝分かれし、京王線沿いに細く伸びていく。

途中、特に何もない。中山道の時にも感じたことだが、歴史を感じさせるものが何もない場所、というのは、おそらくその当時には、本当に何もなかったのだと思う。江戸時代には、田畑が広がる地域だったのだろう。

江戸時代の清水徳川家の役人村尾嘉陵の書いた本に、江戸近郊の様子が描かれている。このような史料を併せて読むと、想像力を補ってくれる。森や林の間に広がる田畑の間を、旅人は黙々と歩いたに違いない。私もビルや家並みを横目に、後ろから迫り来るバスやトラックを避けながら、ひたすら前に歩を進める。

東京の二十三区を過ぎると、急に建物の高さが低くなる。二十三区内を歩く間は、道の左側を歩いていれば、日陰になるほどの高さの建物が続いていた。しかし、世田谷区を出た後は、二階建ての一軒家が並ぶようになる。また、それまでは道にせり出すように建っていた建物が、数メートル道から離れた場所に建つようになり、日陰が歩道を覆わなくなる。

布田五ヶ宿

国領から先、調布の辺りにあったのが、布田五ヶ宿。国領、下布田、上布田、下石原、上石原の五宿で構成していた。国領から味の素スタジアムのある飛田給の辺りにまで、小さな宿が点在していたようだ。府中の手前の間の宿としての役割もあったようだ。

飛田給の先から、旧甲州街道は江戸初期の頃の甲州街道と分かれるが、そのまま江戸後期の甲州街道を直進する。

昼を過ぎて気温が高くなり、手元のスマホに熱中症注意報の警報が配信されてきた。そういえば、頭がいたい。これは熱中症か。

途中のコンビニに幾度となく立ち寄る。カフェインの入っていない、麦茶を購入するのだ。特にセブンイレブンの麦茶はほんのりと自然の甘さが心地よい。

しかし、そんな水分補給だけではどうにもならず、飛田給の先にあったスーパーに一旦退避する。エアコンが心地よい。ちょっと頭がふらふらするので、しばらく店内の椅子に腰掛けさせていただいた。わずか数分のことであっても、ちょっと涼しいところに入って一息つくだけで、随分と違う。

日本橋から歩き始めて、今日は日野まで約四十キロを歩こうと考えていた。でも、久し振りの、それも炎天下であったせいか、思った以上に身体は疲れていたようだ。

日本橋から府中までで三十キロちょっと。家からの歩行距離と、途中の無駄足を考えると四十キロ近くにはなっているはずだった。日野まで歩くと五十キロになるだろう。時刻も午後二時を過ぎていたので、予定を変えて今日は府中までとした。

涼んだ後、麦茶を飲み過ぎたせいか、今度はお腹がたぷたぷしてきた。飲んだものがそうやすやすと身体の外に出ていくわけでもない。

朦朧としながら、東府中の駅を通過。ここから乗ってしまおうかとの考えも頭をよぎったが、せっかくだから府中まで歩こうと、自分に言い聞かせた。

府中駅

府中には大國魂神社がある。港区に住んでいた頃、ここまで自転車で走ってきたことがある。なぜここに来ようと思ったのか、よく覚えていないが、そのあと練馬の実家に立ち寄り、都心まで帰っていった。ママチャリで都心から気軽に来ようと思うと、府中あたりが限界だろう。歩くのであれば、府中が一日目の終着地。府中はそんな程よい距離にある。

次回は府中からの続きとなる。